自分を否定したとして それすら自分の声だ ——前編

誰にも語ったことのない、一番古い記憶の話をしよう。

初めて幼稚園に行った時のことである。多くの人が2年間通うところを小学校入学前の1年間しか通わなかったため、みんなより遅い途中入園ということだった。幼稚園という場所がどんなところなのかはあまりイメージがついておらず、親からは「ともだちがいっぱいいるところだよ」みたいに言われていたような気がするけど、なんとなく乗り気ではなかったと思う。というのも児童書で読んでいた “ともだち”は、列車で雲の上まで行ったのち自分が立つ土台となる雲を「おいしいね」といって食べ始めたりするサイコパスだ、という程度の認識しかなかったからである。

グラウンドを通り、下駄箱で靴を履き替え、いよいよ “ともだち”がいる部屋に通された。一人っ子(正確には違うのだが、その話は長くなるので割愛)で同年代の幼児と全くコミュニケーションを取ったことがなかったため、部屋に自分と同じようなのが溢れかえっている様子は端的に言って恐怖でしかなかった。どうすべきか考えあぐねて部屋の中で固まっていると、不意に背後から「きみ、名前は?」という甲高い声が突き刺さってきた。

そしてその時から、声というものが苦手になった。

 

苦手なキーの声は確かにあるし、男女に関わらず低い声の方が圧倒的に好感が持てる。ただしそれはあくまで相対的にという話であって、本当に問題なのは声の性質そのものなのだ。声は視線と異なり、意図的に遮断することはかなり難しい。アパートの薄い壁はもちろん視線を隠してはくれるものの、どうしても隣室からの笑い声や上階の足音から自分を守ってはくれない。気分が乗らない時に突然電話の着信音が鳴った時は最悪で、そんな時には相手が誰だろうと完全に無視をする。西野カナが「何かあるたびに話したい」と歌っていたけれど、こちらの心の準備が出来ないうちに話し掛けてくる人にはGoogle Homeを贈りたいところだ。小学校同級生の女の子が「ママはよく壁に向かって話しかけてる」と言っていたが、彼女のママの話し相手はアレクサに取って代わられているのだろうか。

 

しかし本当は声が苦手なのではない、と最近思うようになった。カラオケで自分が歌うのは嫌いだけれども、カラオケ屋にいることはそこまで嫌いではない。カラオケに限らずとも、人の話を聞くこと自体は最近むしろ楽しく感じる自分がいる。本当に苦手なポイントは、やはり、とも言うべきか、「触れる」という行為と共通しているのだろう。そしてこの事に触れない限り、自分のトリセツを書き上げることは出来そうにない。

 

(後編は未定)