走り続けて三年半—前編

 

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大学生活はまだ終わってはいないけれど、大学に入学して今に至るまで、ずっと傍らには「躰道部」という部活が寄り添い続けていました。3年半もアホみたいにエネルギーを注ぎ込んだ部活についてこんな文章で表現できると言ったらウソになるけれども、少なくとも気が向いている間は書き留めておかないのも何となく変な感じがするという訳です。7割は自分向け、2割は部の関係者向け、そして1割はその他ぼくを知っている人向けの文章になります。今この文章を紡いでいる時点では、どんな長さになるのか、どんなスタイルで書くのかも全く決まっていません。

躰道を知らずにこの文章を読んでくれている人はそうそういないでしょうが、そんな人はとりあえず「空手×体操=躰道」という認識で構いません。もしくはうちの部の公式PVでも見ていただければと思います。1つ上の先輩方が作られたもので、つい最近1万再生を突破しました。

https://youtu.be/AtVVSdO6xD8

 

 

学壱時代(~1年の12月)

以前の記事でも書いたように、この部活に入ろうと思ったきっかけは、新歓PVの展開競技がカッコいいというただそれだけの理由だった。新歓期にご飯に連れていって頂いた(所謂タダ飯、と人は呼ぶ)時、学弍で既に展開メンバーとして学生大会に出場していた先輩(次年度主将になられるのだが)に「何の競技がやりたいの?」と聞かれ、「展開ですかね…」「お~良いじゃん」となったことを覚えている。驚くべきは、既にこの時から、自分の語尾には三点リーダーが付いていたのだ。

この1ヶ月の新歓期が終わると、5月頭に入部歓迎会なるものがある。その会で、自分は「この部が自分を呼んでいる気がしました」みたいな事を言った気がする。ああいうところでは大きいことを言っておけばウケる面もあるのだけれど、3年半が終わりつつある今、あの時の自分の言葉は丁度良い伏線回収になりそうだ。

とにもかくにも、入部して半年間は、練習時間のほとんどが「旋体(女子は旋陰)の法形」(いわゆる型の競技)の練習に費やされることとなる。様々な種類の激しい動きが必要となる躰道においては、単なる横回転(独楽状の動き)は比較的簡単な部類に入るのだが、これが思いのほか上手くいかない。そもそも身体の軸がふらふらしているとバランスが取れず真っ直ぐ進めないし、それが出来たとしても体幹から生えている手足を上手く操作出来ないと、より回転が不安定になりスピードも上がりにくくなるのだ。もちろん武道の「型」である以上、想定されている敵を倒す表現が追究されていなければならないのだが、多くの白帯は単なるダンスになりがちで終わる。本格的に部活が始まってすぐ、ほとんどの新入生が、ここで自分の身体の不思議に目覚めることになる。別に変な意味ではありませんが…

さて、武道として広く成立している以上、いくつかの大会も存在している。ぼくが所属している(していた)ところは誰にも知られていないが強豪校であり、全国学生大会で当時7連覇中。部として掲げている目標のうち、「学生大会の総合優勝」はかなり大きな割合を占めていたと言える。そしてまた、入部して1ヶ月後に型を披露する部内大会や、いくつかの地区大会などがその間に設定されている。正直に言うと、自分はそこまで大会に対して熱意がある方ではなかった。地区大会などで負けても「まあそんなもんやろ」程度の認識だったし、そもそも自分があまり上手な方だとも思っていなかったからだ。

しかし、学生大会が近づくにつれ、根にある「負けず嫌い」がどんどん膨らんでいくことにも気づいていた。学生大会の新人枠は男女それぞれ5人ずつ、5人1チームで「団体法形」を通すことになる(息のぴったり合ったシンクロを想像してもらえば概ね間違いはない。そういえばシンクロって「アーティスティックスイミング」に名称変わりましたよね)。学生大会は部にとっても大きな意味を持つ大会ではあるし、何より自分にとっての半年間の集大成のような意味合いがあった。学壱の夏休みとかは部活以外をやっていたイメージがまるでない(まあそれは学壱時代だけでは無いが……)ほど、練習に熱を上げていたような気がする。

結果的に、自分は選抜メンバー5人の中に選ばれることになった。当時監督をやっていらっしゃった先生曰く、「存在が薄いのが(団体法形に)合ってる」とのことであった。驚くべきは、既にこの時から、自分の存在すら三点リーダーと変わらなくなっていたのだ。そうして更に練習を重ね時が過ぎ、遂に10月頭の学生大会を迎えることになる。

結果的に、その年の新人競技で、ぼくらは他大学のチームに負けた。東大が新人で優勝出来なかったのは確か5年ぶり?くらいだし、ぼくらの下の代は全て優勝を掴んでいる。つまり、ここ8年の歴史で、新人で負けたのはぼくらの代だけなのだ。それでもなぜか、ぼく自身の中にはそこまで悲しさはなかった。試合に出られなかった同期が泣いていたりしている一方、当の自分は、それを笑いながら見ていたような気がする。強いて当てはめるなら、「サイコパス」みたいな言葉が適切だろうか。新人競技は負けたけれど、総合点数に対する影響は高々20%にも満たない。先輩方が点数を稼いでくれたおかげで、その年も総合優勝を達成し、8連覇に記録を伸ばした。そうして学壱としての、主要なイベントは幕を下ろした。

(「新人の影響は小さい」など言っておきながら、3年後の学生大会、つまりぼくらが執行代となって迎えた最後の学生大会は新人競技に救われることになるのだが、それはまた後ほど)

 

学生大会が終わっても、授業に対する熱意が戻ってこないのはよくある話である。引き続き部活に傾倒していたぼくは、いよいよ「転技」に手を出すことにした。ジャニーズがよくやってるような、バク転とかバク宙とかのアレである。その意味でぼくもジャニーズである。あ、バク転は未だに出来ませんが。

バク宙やら前宙やらの練習をやっているうちに、なんとなく自分にはこれが向いているんじゃないか、と思い始めるようになった。というのも、空中で身体をボールみたいに抱え込む動き、まるで母親の胎内に回帰するかのような動きは、そもそも背中が丸まって猫背なぼくにはあまりに容易だったからだ。一方、バク転のように身体を大きく開く使い方は自分には無理だとわかった。それは身体が固いとかの問題もあったのかもしれないけど、「生理的に無理」というやつに近かった。ええ、「生理的に無理」なんて、上京して満員電車で感じた以来です。

4年生の先輩が引退なさる時、すなわち1年の納め稽古が行われる日までに、畳の上で前宙とバク宙の2種類が飛べるようになっていた。というか、先輩方に対する「ここまで出来るようになりました」という宣言のつもりだったのかもしれない。あっという間に学壱としての半年間が終わり、納め稽古を経て、ぼくらは「学弍」という立場になる。

 

 

学弍時代(1年の1月〜2年の12月)

年が明けると、「遂に君らも先輩になるよ」と口すっぱく言われる時期がやってきた。中高と運動部に所属していなかったぼくにとっては、初めての経験である。基本的に、入ってきたばかりの新入生を上手く育てる(という言い方はよくないかもしれないが)のは、学弍の仕事なのだ。そしてぼくは、新歓における学年の取りまとめ役みたいなのをやっていた。どうしてやることになったのかはあまり覚えていないけど、「誰もいなければやる」みたいな考え方だった気がする。しかしこう見えてもぼくは新歓を割と楽しんでいたし、また仕事を進める中で、「自分が4年生になったらこうしたい」ということも色々考えるようになっていた。視力は未だに1.5あるので、遠くまでよく見渡せるのである。

さて、学弍になることによるもう一つ大きな変化は、競技練の開始である。学壱の学生大会では新人の団体法形(型)しかなかったのだが、上級生になると法形、実戦(組み手)、展開(カンフー映画)の3競技に分かれて練習することになる。これは学生大会に出場出来るチャンスが増えるということでは決して無く、逆に、自分より1年も2年も長く部活をやっている先輩方とほんの僅かな出場枠争いをして、そこで勝ち抜かねば全国大会の畳を踏むことが出来ないことを意味していた。

ここでの競技選択はその後の部活人生に少なからず影響するので、人によっては割と悩みどころかもしれない。しかしぼくは、かなりあっさりと、法形競技1本に集中するという選択をした。学弍になって実戦の基礎練習みたいなのが始まった時点で、自分に実戦が圧倒的に向いていないことは誰が見ても明らかだったし、入部前からやりたいと宣言していた展開競技についても、当時の先輩方の選手層が厚過ぎてメンバー入りはとうに諦めていたからだ。はっきり言って、少なくともぼくは、学弍の時は学生大会の代表メンバー入りする気は更々なかった。ただ黒帯になる来年こそは法形と展開に出たいと思って、地上に出る前のセミよろしく、学弍の5月から半年間の全てを、基礎的な土台作りに費やした。

学弍で学生大会に出られるのは例年1人いるかいないかというレベル(あくまで男子の話で、女子はまた別だ)であり、そのため学弍はモチベーションを失いがちになる(例年「学弍病」と呼ばれたりする。何でも病と認定されるのが現代社会の特徴だ)。先に引退なさった先輩方も「学弍が一番つらい」と語ることが多かったのだが、自分にとっては全くそんなことはなかった。というのも、学生大会のメンバーに入れるか入れないかのしのぎを削る当落線上にいない分、ある意味何も考えずにのんびりと練習をするだけでよかったからだ。全国大会の前日も、自分の胸の高さまで重ねたマットの上に前宙で飛び乗るという遊びをやっていた。気が張りつめている先輩からしたらさぞ気に食わない後輩だったろう。


この1年間も、転技の練習は地道に続けていた。バク転はそもそも練習すらせず、また側転が下手な為にロンダートもまともに出来なかったが、その代用として抱え込み側宙、猫宙🐱(側転前宙)、猫宙🐱半捻り、側転側宙、飛び卍蹴りからのゲイナー半捻りなど、ほとんど飛べる部員がいないような変な転技ばかり身につけてしまった(ビジネスの基本はブルーオーシャン戦略とはよく言ったものだ)。おそらく、学弍の秋までに、自分が能力的に飛べる転技はあらかた開拓し尽くしていた気がする。しかし今振り返ってみると、黒帯になってからの自分のキャリアは、概ねこの変な転技たちが作り上げてくれたものである。

ぼくのことを慕ってくれている後輩たち(なんて存在するのか?いたら電話して下さい)はそうは思っていないかもしれないけれど、ぼくは自分が躰道が上手い方だとは考えていないし、むしろ下手な部類に入るんだと思っている。ぼくの実戦を20秒見ればわかる。それでも、黒帯になって大きな大会で結果を出すことが出来たのは、自分の下手な部分を完全に切り捨てて、得意で楽しくやれる分野に全てを賭けたからだと思っている。もちろんこれが皆に当てはまる訳ではない(し、そもそも後輩達はみんな上手な)ので、真似することは推奨しない。ただぼくの部活人生の時計の針は、そうやって動き続けてきたということに過ぎない。


また1年が終わって、いよいよ学参。もし「一番つらかった時期は?」と聞かれたら、ぼくは脊髄反射で「学参」と答えるだろう。ブラックなのは、帯の色だけで良かったのだが……

 


【前編・完】