走り続けて三年半—後編


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学参時代(2年1月~3年12月)

1年のうちで最も練習量が多くなる9月を100とすると、例年1~3月は50とか60くらいの強度だと思うのだけれど、今年は1月から80くらいの強度が襲いかかってきた。というのも、3月には日本代表選考会があり、ぼくは男子展開チームの一員として出場権を有していたからだ。(詳しくは11月5日の記事にあるかと思うが、)日本代表に内定して7月に行われる世界大会に出場するためには、出場する4チームの中で優勝することが絶対条件であった。その4チームには、少なくともぼくが知り得る限り、全日本大会でメダルを獲り続けているチームも名を連ねていた。「全員大学から始める」のが売りの我が部は、メンバー6人で合わせて躰道歴16年。相手のチームは、メンバー1人ですら16年以上やっているようなメンバーの集まりだった。

そもそも展開の練習が初めてだった自分にとって、主役の上を側宙で飛び越えたり(展開の5番はそういう仕事だ)というのは、体力的にも精神的にも相当削られる経験だった。本来ならば5~6ヶ月かけて作るような展開の筋を2ヶ月で仕上げるところまで持って行かねばならなかった為、当然ながらそれなりのケガも起きた。選考会前日の最後の全通しで、主役を務めていた先輩の顔面に、某先輩が飛び旋(飛び後ろ回し蹴り)をクリーンヒットさせたのは未だに忘れられない。昔『エンタの神様』によく出ていた摩邪(まちゃまちゃ)が「本当に『最悪』ってのは、ライオンに噛まれて初めて言え」みたいなことを叫んでいた覚えがあるんだけど、あの瞬間の雰囲気こそ「最悪」に相応しかったな。

気持ち的にも若干ヒビが入り始めたのは、ちょうどこの時期だったのだと思う。というのも、多くの人が向き合わざるを得ないであろう、部活と学科の両立問題に直面していたからだ。2年の秋からは進学選択があり、ガチガチの理系から興味と好奇心だけで文系の学科に進学したぼくは、色々と勉強しないといけないことも多かった。課題も分量・難度共に高く、初学者の自分にとってはかなりの負担で、睡眠時間を削ったりということもしばしばだった。2月以降は春休みということで若干の余裕も生まれたものの、部活を続けるということは、その状況が長く続くことを意味していた。そのヒビが文字通りポッキリと折れたのは、選考会本番で、最終極め技を失敗した時だったと思う。当然ながら、大会において重視されるのは結果であり、過程ではない。選考会の結果が発表されるまでには3~4日有したが、その間に、一つの決断をすることになる。すなわち、「選考会で負けてたら、部活をやめよう」ということである。「やめたい」ではなく、「やめる」と決めていた(その理由で退部が認められたのかどうかは分からないけれど)。後にも先にも、そう思ったのはこの4日間だけだ。

結局、今、ぼくは4年間を過ごしてこの記事を書いている。JAPANのエンブレムと自分の名前が刺繍された道着も頂いた。引退直前の今振り返ると、当然ながら4年間を過ごせてよかったと感じているし、後輩にももちろんそうやって伝えるけれど、同時に「生存バイアス」という言葉の存在にも自覚的でいて欲しい。


しかし、3月にはもう一つ象徴的なイベントがあった。それは昇段審査、すなわち黒帯の審査である。ちょうど1年前に、1つ上の先輩方が黒帯を贈呈され笑顔で新品の黒帯を身につける様子はとてもカッコ良くて、かなり大きなモチベーションにもなる(執行代の後輩に一言言っておきますが、黒帯贈呈だけはしっかり時間を取ってやった方が良いと思います—特に貰ってすぐ帯を結ぶ姿を後輩の目に焼き付けさせることそれ自体に意味がある)。ぼくは選考会での練習に伴うケガにより十分な練習が出来ておらず(特に苦手な実戦が審査項目に入っているのはあまりにまずかった)、無理を言って他の同期より数週間ほど受審を遅らせて頂いたものの、ギリギリ新歓の時期に間に合うか間に合わないかの時期に黒帯を締めることが出来た。新品の黒帯は固くて結びにくいけれどやはりカッコよくて、なんか強くなった気がした。もしかしたら、全パラメータ10%強化のアビリティがついていたのかもしれない。

 

3ヶ月書いただけで学弍時代の分量を超えてしまった。めちゃくちゃ巻きで行きます。


とは言え、残りは概ね去年までと大差ない。練習を重ねた7月の世界大会は涙の銀メダルに終わり、11月には例年通り学生大会と全日本大会が行われた。学生大会では展開競技と別に団体法形競技にも出場させてもらい、両競技で金メダルを頂いた。全日本では、新潟チームに選考会のリベンジを喰らい、東大男子展開史上初の全日本制覇はお預けになった。そして、長かった—本当に長かった1年はまた終わって、ぼくらは遂に最上級生として君臨することになる。

巻き過ぎました。強いて書き記しておくことがあるとすれば、学生大会の男子展開競技では圧倒的大差をつけて優勝したにも関わらず、ぼくらには一切嬉しいという気持ちはなかった、ということか。ただ存在していたのは「日本代表チームが負ける訳にはいかない」というただの義務感であり、それこそ敗北でもしようものなら……という雰囲気が流れていた。あの瞬間の雰囲気こそ「最悪」に相応しかったな。今のぼくに出来ることは、後輩の皆があのような気持ちに襲われないよう、ただ祈るだけである。


こう見ると、学参時代の自分には一切の希望がなかったように見えるが、そんなことはない。1つ上の先輩方には良くして頂いたし、何よりこの年に入部してきた後輩が特に面白いやつらだった。そもそもの経歴が面白かったり、コントをやってたり、考え方が妙に尖ってたり。最後のクリスマスパーティーは本当に最高でした。あ、今年のも期待しています。

 

 

学肆時代(3年1月~あした)

まあ確かにそうだ。年が明けると、今までいたはずの先輩は突然いなくなる。でもそれだけの話に過ぎなくて、さほど感傷的な気分になることもないし、なる必要もない。誰も時の流れに逆らうことは出来ない。背中を向けたままで強風に煽られて飛ばされるくらいだったら、開き直って前を、すなわち飛ばされる方向を直視すべきなのだ。


教訓めいた話はさておき、大事なことは早めに言っておこう。少なくともぼくにとって、学肆時代はめちゃくちゃ楽しかった。法形・上段攻防・下段攻防の統制(=指導役)、広報局の局長、新歓の取りまとめ役、法形・展開2競技の副リーダー、そしてもちろんプレイヤーとして、色々な役割を渡り歩きながらの1年間だった。学科と相まって忙しくなることもたまにはあったが、それでも自分でシステムを作り上げて実行し、その反省を元に練り上げて…という、ある種の制作者的な立ち位置こそ、自分の性格に合っていることには薄々感づいていたし、この1年間はほとんどそんな感じだったからだ。よくよく考えれば、小さい頃、お風呂場で色んなシャンプーやらを混ぜ合わせて「最強の石鹸」を作っていたなあ。


話を戻そう。学肆になって最初の大仕事は、やはり新歓活動である。新歓の取りまとめと広報局の取りまとめを一手に引き受けていたぼくは、新歓の準備をするに当たってあまりに動きやすい状態にあった。新たに新歓向けのツールを導入したり、去年の先輩方を引き継いでVRや360全天球カメラなどのメディアを用いたり(実はここにぼくが学科を選んだ問題意識があったりする)、なぜか新歓ビラ・立て看板まで作ったり、色んな領域を股にかけて、自分の出来ることはとりあえず最大限やっておいた。そして何より、現主将(つまり同期)の部員を動かす能力があまりにも高かった(あいつは球団運営シミュレーションゲームとかがめちゃめちゃ上手いタイプだと思う)。部員の頑張りや運の良さも絡んで、今年は多すぎるくらい(いや批判じゃないですよ)の新入生が入部してくれた。あれだけ入ってくれればそりゃ楽しいよな。あ、引き継ぎは卒論にケリをつけたらやりますのでしばしお待ちを。


さて、最上級生として後輩を引っ張っていくということ—考え直すと、案外悩ましいことだとすぐに気づく。そもそも後輩より高々1年躰道を長くやっているだけの身分なのに、後輩に「教える」なんて言えるのだろうか?そして後輩の前に立つ場合、どんな態度で立ち振る舞えばいいのか?自分自身がとるべき指針とは?考え過ぎなのかもしれなかったが、そもそもぼくは考え過ぎるきらいがある。こんなことを明かすのも気恥ずかしいけれど、ぼくは学肆として君たちの前に立つ時、次のことを考えていた。まず1つに、弱みを見せないこと。そして2つ目に、魅力的な先輩(に見える何か)でいること。そしてその上で、君たちにとって何らかの意味を持つ先輩であることだ。

もはや古い考え方かもしれないけれど、やはり先輩として存在している以上、ある程度の「重さ」を持っていないといけない、とぼくは考えていた。特に競技の統制を取ったりすることのある自分にとって、その「重さ」は必要悪だった(発言内容よりも発言の立ち位置が重要なことはよくある話だ)。それは、そもそも発言自体が多くない自分の性格的とマッチしていたこともあり、比較的簡単だった。あとは「それっぽく」しているだけで、それなりのイメージはついてくる。こんなことを書いていると、クソみたいなプライドに縋ってきたんだな、と思って虚しくなる自分もいる。

しかし同時に、何とかして魅力的な先輩になりたい、とも思っていた。特定の誰かにとってだったのか、自分にとってだったのかはよく分からない。とにかく、後輩が「こいつのことを知りたい」と思ってくれるような存在、つまり遠くにいそうな一方で近くに来て欲しい、そんな存在になりたかった。より具体的には(恥ずかしいですね)、「普段はあまりしゃべらなくても、いざ口を開くと期待してしまう」とか、「Twitterとかでは案外親しみやすい」とかそんなところだ。その戦略が上手くいったのかは君らのみぞ知るだけれど、ちゃんとぼくのことを見ている人は、そのうわべの戦略があまりに痛く見えていたことだろう。

端的にまとめると、君らにとって何らかの意味を持つ先輩でいたかったのだ。大事な局面ではそれっぽく頼りになるような先輩。例えば、審査後に素っ気なく言葉をかけてくれるような先輩。夏合宿1日目の夜練でこっそりと励ましの言葉をかけてくれるような先輩。もちろん後輩たちが覚えているかはわからないけれど、その時からぼくは伏線を張っていた。そう、ぼくは伏線回収ものが好きなんです。


3年半を振り返ると、少年漫画みたいなストーリーだったな、と思う。0から躰道を始めて、世界レベルの最強チームを相手に戦って、最後の引退試合で見事日本一を取るなんて、ジャンプ系の漫画で連載を取れるとしか思えないストーリーだ。けれどもはっきり言おう。もはや大会の結末自体はぼくにとってはどうでも良くて、ぼくはいつのまにか、後輩の為に部活をやっていたのだと思う。もしかすると、学生大会の団法で優勝を逃して2位だったのは、その甘さが牙を剥いたものだったかもしれないし、全日本大会での涙は、自分自身や先輩に対してのものでもあると同時に、後輩に対してのものだったかもしれない。それは今や分からないけれど、君たちにとって何らかの意味を与えることさえ出来ていれば、それで十分だと思っている。……とはいえ、全日本優勝は単純に嬉しかったですけど。

 

卒部して、ぼくのストーリーはもはや1つのヒストリーに過ぎないものになる。そのヒストリーの断片を自分なりに紡ぎ直して、他ならぬ自分にとって意味のあるストーリーにするのは、君らがやることだ。ストーリーを描く途中では、学科の存在や家庭の事情などによって、思い描いているのと違った選択肢が顔を出すこともあるかもしれない。しかし願わくば、君たちも1、2、3年後にこちら側に立って欲しい。そしてその時こそ、自分のヒストリーを更に後輩に受け継いで行って欲しいと思う。

 

 

【後編・完】