主体性と客体性のはざまで

 

予習文献には既に目を通していて、指摘すべきポイントにおおむね検討はつけている。休み時間を使って言うべき言葉は整理した。あとはそれに沿って口を開くだけでよい。しかしそこで、ある疑問が頭に浮かぶ。自分が考えたことなんて、他の人はみんな既に考えているに違いない。みんなが黙っているのは、それがわざわざ言うまでもないことだからだ。その思いが脳をよぎった途端、開こうとした口は固く結ばれる。講義中に首振り人形と化した自分の頭を、シラバスに書かれていた「講義中の態度も加味する」の一文がぐるぐる回り続ける。


「アクティブ・ラーニング」という理念は理解出来なくもないけれども、あの言葉は嫌いだ。生徒が教員から受動的に知識を享受する従来型の講義に対して、体験学習やディスカッション、ワークショップなどを通じて主体的に授業に関わらせることで、記憶の定着や知識の応用が可能になるという概念を指している。いや、より正確には、「関わらせる」ではなくて「関わる」でなければならないのだろう。しかし自分は、「アクティブ・ラーニング」にはあくまで「関わらせ」られているという認識でいる。

もちろん自分が話が下手なのが悪い。内向的な性格なのも事実。しかし最大の原因は、やはり仮面にあると思うのだ。講義が始まる前にはニコニコおしゃべりをしているクラスメイト達も、講義が始まると一転、あの仮面みたいな無表情を突然貼り付ける。「私は何でも知っています」と言わんばかりのデスマスクに囲まれて、自分の未熟な意見を芽吹かせることはあまりに難しい。主体的に、というよりは場の空気に押されて仕方なく発言することがほとんどだ。周りの人からはぼくもデスマスクに見えているのかもしれないけれど、そこまで気にする余裕はない。


何かを教えられるということは本当に受動的なプロセスだろうか。部活の練習でも、教えられた動きに対してCtrl+C,Ctrl+Vなんて出来やしない。結局自分の中で知識を入れても、使う前にはそれを十分に噛み砕かなければならない。「アクティブ・ラーニング」と聞くと講義をバカにしているように聞こえるけれど、講義も十分な「アクティブ・ラーニング」だ。そして「アクティブ」という言葉を冠することで傲慢になっていない分、後者の方が幾分マシに思えるのは自分だけだろうか。「主体的に〜させる」なんていうのは究極的な語義矛盾だ。

そもそも何かを発言する時すら完全オリジナルの意見を提示出来ることなんてなくて、常にぼくらは伝え聞いたことのある意見に縋らざるを得ない(というのは、卒論で嫌という程思い知らされた)。意見を発することが一つの能力ならば、相手についていくこともまた、重要な一つの能力である。というのも、ついていく相手を正しく選び取れなければならないから。お菓子に釣られて不審な車に乗ってはいけないと分かってはいても、ぼくらは論文に書かれてある内容を無批判的に受け取ってしまいがちだし、教わった内容を無批判に受け入れがちである。足場を固めてからでないと高さが出ないということを、ぼくは「どうぶつタワーバトル」というゲームアプリで嫌というほど教わった。


とはいえ、「主体的に〜させる」という矛盾を嫌うだけでは生き残れはしない。どういうことか。

部活で学年が上がっていくにつれ、あるべき姿のようなものを追い求めることが増えていた。自分を教えてくれたあの先輩のようになりたいとか、色んな人と楽しそうにしているあの後輩のようになりたいとか、学年問わず尊敬していた人間像はあったけれども、同時に、自分が絶対にそうはなれないことは分かっていた。しかし単にそうなれませんでしたと白旗を振るだけでは、メンバーが70人を超える部活の中で生き残れないこともまた分かっていた。「~である」「~ではない」といった状態だけでアイデンティティが保たれる甘い状況なんて既に終わっていて、そこから抜け出すためには「~する」「~した」という行為で自分を特徴づけることが必要だった。そしてぼくは主体的に、主体的に行動しないことを選んだ。三途の川を渡って引退した今、自分から積極的に接していればと後悔も少なからずあるけれど、それでも自分なりのやり方で色んな人に良くして貰えていた気がする。その方法以外があったのかは神のみぞ知る。


主体的に動かないと、生き残れない。けれども主体性がないのは、必ずしもいけないことだろうか。