最近の生活について——ならびに「リアル」「リアリティ」
つい6日前のこと。タクシーに乗っていると、ドライバーが突然話し掛けてきた。
「お客さん、ギャンブルとかやるんですか?」
人間は、ある程度状況を予想して動くことが出来る。そして逆に、予想していない状況が襲ってきた時、冷凍保存されていた脳味噌が解凍されるまで時間を要する。卒論審査の際、「レジュメの業者チェックにいくらかかったの?」という英語での質問に対して、「あばうと……ふぃふてぃーんさうざんど……」と返すまでに10秒弱掛けてしまった時には、ぼくは氷河期に生きていたのかもしれない。それはともかく。
「あ……たまにやりますね……」
「パチンコとか?」
「そうですね、パチンコはたま~に打ちますね」
「競馬は?」
「競馬は行ったことないですね、行ってみたいとは思ってるんですけど」
「俺は最近FXに手を出してて。もう7~8万負けてるけど」
「そうなんですね」と笑いながら答えるぼくの頭には、FXで有り金全部溶かした人の顔が浮かんでいた。その後も会話は続き、ぼくは机専門のインテリアデザイナーとして在宅で働いていることになった。それはともかく。
「なんでギャンブルやっちゃうんですかね?」
「刺激が欲しいからでしょうね」と返答が飛んできた。それが最後の会話になった。車が事故を起こしたわけではなく、単に新居に到着したからだ。表示されるメーターに従ってお金を渡して、タクシーを降りた。
分からなくはない。あの部活に入った理由の一つは、なんとなく刺激がありそうだという予感が少なからずあったから。最近ボルダリングに手を出しているのは、普段の生活では出来ない駆け引きが出来るから。重力に逆らって困難な足場を登ったり、足場を使わずに空中を移動したりというのがとても好きだ。だから、ネットで検索して出てくるアスレチック施設の多くには一切の興味を持てない。あれだけ安全が担保されていて、落ちても安全なエリアなんて全く面白くない。やるからには、危険が欲しいと望んでいる。生きている実感を望んでいる。何故かは分からないけど、知らないことを経験すればするほど、そして危険を味わえば味わうほど、本当の自分が近づいてくるような気がする。
最近、数人の知り合いの影響で、色んな読み物やアニメ・映画を手に取っている。偶然か必然かは分からないが、管理社会の問題系を扱っているものが多い。すなわち、行動が管理され強制される社会システムからのある種の脱出、もしくは社会システム自体の破壊というテーマだ。
『トゥルーマン・ショー』という映画を例に挙げる(※※※ネタバレあり。面白い作品なので、見て自分で考えたい人はこんなブログなんかを読んでいないで、今すぐウィンドウを閉じてNetflixなんかで探してみてください。以下ネタバレ→→→)。トゥルーマンという名の主人公は自分が普通に生まれ普通に暮らしていると思っているが、身の回りの変な出来事を通じ、彼は自分の生活が何者かによって作られ、制御された世界の中で動いていることを感じ始める(実際、彼の生活は30年もの間、24時間中継で放送されており、世界中で人気の番組となっていた。彼の住むシーヘブン島はハリウッドに作られた超巨大セットであり、何百人もの住民はみな、ディレクターの息がかかった役者であった)。自らに違和感を感じ始めたトゥルーマンは、遂にその世界を脱出しようと試みる。脱出直前のトゥルーマンに対して、ディレクターが告げる。
「外の世界より真実があるのは、私が作った君の世界だ。君の世界に、危険はない。」
しかしトゥルーマンはディレクターの甘い誘惑を断り、外の世界、いわば「リアル」に出て行くことを決意する。「リアリティ」が保たれたシーヘブン島に対し、「リアル」は、現実は、嘘やまやかし・危険が横行する場所だ。しかしそれでもトゥルーマンは、自ら危険な地に出向いていく。「本当の自分」を探すために。
ほとんどの作品では、管理社会はユートピアの象徴であって、制度に従う限り最大幸福・最小不幸が約束される。しかしながらその中で人間は狂い始めるか、もしくは自らの存在意義に疑問を有し始める。自らの知らない外部を、危険を追い求める。そこに「本当の自分」が、「本当の社会」が、「本当の世界」があると信じているからだ。もしくは、「自分探しの旅」という言葉がある。知らない土地に行けば、何か自分の知らない自分が見つかるのではないかという期待。
それに対して、多くの人間は、次のように語るだろう。「『本当』とか『真実』なんてものはない。そんなものを求めるだけ無駄だ」と。もしくは、「常に自分は『本当の自分』でしかあり得ないし、それを認めるしかない」と。試しに、「自分探しの旅」で検索をかけてみる。「『自分探しの旅』って、ただの現実逃避じゃない?」「『自分探しの旅』は意味がない」「『自分探しの旅』に出る前に~答えは自分の経験の中にある」「自分探しの旅にゴールはないけど、探すことそれ自体に意味がある」……。持つべきは夢ではなく、現実感なのだろうか。それもとびきり残酷な現実感?
ぼくという人となりを知っている人には言うまでもないけれど、ぼくが好むストーリーは「脱出してお涙頂戴のハッピーエンド」なんかではない。けれども、行く先がデッドエンドだったとしても、やはり安住ではなく脱出がしたい。なにか縋るべき「真実」のようなものが欲しい。もちろん、囲い込まれた社会に「真実」が存在しないという保証はどこにもないし、脱獄によって結果的に「真実」から遠く離れてしまう可能性だってある。それでも、何か危険な香りのする中にいると、何か生きている実感が持てるような気がするのだ。
タクシーのメーターのような客観視されるデータを基にシステムが稼働する社会の中にあって、崇拝とか信仰のような非科学的なものはだんだんと効力を失いつつある。TLでは「大仏建立」がネタにされている時代。自分の手で作り上げた大仏は、本物の大仏たり得る訳がないとぼくたちは考えている。真実は人間の手を離れた絶対的なものでなければならないという考えは、日に日に力を増して社会を取り巻いている。けれども、法や規範だって人間が作ったものであって、結局ぼくらは大仏建立と同じ時代に生きているに過ぎない。そんな中で、自分の力が徹底的に及ばない象限に「真実」を求めてしまうのは、そんなに虚しいことなのかなあ。