信じていれば 手のひらは返る

 

小学校低学年の頃の音楽の授業で歌わされたのは、合唱曲の定番ともいえる「Believe」だった。素直に良い曲だと思うし、あれにケチをつける人間がいたとすれば、その相当な尖りっぷりに、近づいたものは皆ケガしてしまうに違いないと思われるほどだ。けれども昔、あの歌詞に対して違和感を覚えていたような記憶がある。歌い出しは、〈たとえば君が傷ついて/くじけそうになった時は/かならずぼくがそばにいて/ささえてあげるよその肩を〉という4節から成っているのだけれど、一人っ子で育ちトミカを衝突させて遊んでいたぼく(7)からすれば、「傷ついた時にいつもそばにいられるとたまったもんじゃない」というのが正直な感想だった。もしも子どもを授かるようなことがあれば、間違っても自分のように育たないようにしたいと思う。


人を信じるということは難しい。相手が助言をくれた時のことを考えてみても、自分には自分のバックグラウンドがあり、同様に他人には他人のバックグラウンドがある。その前提が違う以上、内容が信じられるものかどうかは全く定かではない。「十代に共感する奴はみんな嘘つき」という言葉があるけれども、ぼくらは他人に寄り添うことが出来ても、共感は出来ないのだろうな。後輩に助言を求められることがあって、どれだけ親身になりたくて言葉を選んでも、なんだか相手の心臓に無粋に触れてしまっているような感覚がある。触れるということは同時に触れられるということでもあり、相手の痛みを変に感じ取ってしまうこともある。

更に言ってしまえば、自分に寄り添ってくれる人間には何か裏があるのではないかと疑うことすら出来る。朝8時から練習に付き添ってくれるのはどうして? とか、わざわざご飯を奢ってくれるのは何か意図があるんじゃないか? とか。例えば、特に後輩女子たちをご飯とか遊びに誘いたくても、立場上かなり誘いづらい。もしかしたら彼女たちは自分のことを信じてくれているかもしれないけれど、ぼくは彼女たちが自分のことを信じていることを信じきれない。もしも子どもを授かるようなことがあれば、間違っても自分のように育たないように全力を尽くすつもりだ。

 

とはいえ、自分を信じるということもまた難しい。大人になるということは過去の自分のツケが回ってくることかもしれないと考えているのだけれど、最近(特に2019年)、自分の中で色々な矛盾が顔を出していることに気付かされることが多くある。考えと実際の行動が一致しないことは多いし、夢の内容に自分が抑圧していた思いを引き摺り出されることもある。話したいけど上手く言葉に出来ないことがあれば、逆に話すつもりのなかったことを話してしまうこともあった。自分自身の制御出来ない部分がどんどん大きくなっていくのを感じている。あと5年もすれば、倍くらいになっていそうだと思う。唯一信じられるとすれば、どう歩みを進めるべきか分からなくなってしまっている今の自分そのもの、ということになるのか。台の前でボタンを押し続けているのは、潜在的な自己肯定を求めているからなのかなあ。もしも子どもを授かるようなことがあれば、間違っても自分のように育たないように全身全霊を込めて面倒を見る。

残された可能性は、自分の知らない自分自身に残されていると思いたい。それを引き出してくれるような実験場が必要、というのが目下の、そして今後の課題である。

 

その意味で、今まで誘われても決して行かなかった「恋愛IQカフェ」に今年こそは行ってみようかなと考えている。1人で突撃するのはさすがに終わっているので、誰か募集しています。みなさんを信じています。