言葉とか飛び越えちゃって

 

愛のない人間だからか、他愛もない会話が本当に苦手で、反応に困ってしまうことが多い。別にそういう話を聞くのが嫌いという訳ではないしむしろ好きな方なのだけれど、いざ自分がそういう話をするイメージは到底湧かない。もちろん「セブンの新商品のシュークリームが美味しかった」とか、「あの日見た空の色が綺麗だった」とか、はたまた「見かけた人が知り合いのあいつに似ていた」とか、頭の中では色々浮かんではいる。そういうのをLINEとか、挙げ句の果てに電話とかで伝える世界線があるというのは知っているけれど、それはTwitterで十分じゃないかと思ってしまう。他人に共有しようという気には到底なれなくて、それを言われた方も迷惑じゃないかという気持ちがあるのだ。


その意味で最悪なのは新歓で(まあ新歓を最悪と言っていること自体が本当に救いようのない最悪さなのだが)、あそこでは新入生と上手くコミュニケーションを取ることが求められる。実際そのためのマニュアルみたいなのまで作られていて、そこには「二外や出身地などで上手く共通点を見つけ出せ」みたいな感じのことが書かれている。コミュニケーションと呼ぶべきなのか定かでないレベルのコミュニケーションではあるのだけれど、あれが本当に苦手で、正直に言って苦痛だった。初対面の相手の二外とか聞いても別に興味はないし、新入生と出身県が同じだとしても、「だから何?」と思いながら作り笑いをしていた。いや、もしかしたら笑ってすらいなかったかもしれないな。写真撮られる時に笑うレベルですら嫌う人間なので。


以前、後輩の何人かから「あまり無駄口を叩かないのが羨ましいです」みたいなことを言われた記憶がある。けれども、自分からすると羨ましいのはむしろ君たちの側で、自分ももう少し後輩とかとの距離をナチュラルに縮めることが出来る人間であったらと願っていた。まあそれは叶わず、ある種父権的な先輩像しか演じきれずに引退してしまった訳ではあるけど、そうなるだろうとは自分でも薄々感じていたことだ。逆に、練習のアップとかダウンの間に「見に行った映画が面白かった」とか言ってるような自分がいたら、それは誰かの変装を疑って頂ければと思う。少なくとも自分には、あのタイミングで話を始める感覚はあまり分からないままだ。


そして話す量が少ないからだろうか、話したことや自分にかけられた言葉は比較的覚えている方だと思う。2年前の強化練の打ち上げで某後輩女子に「Tweet面白いよね」と話したこととか(いや新手のセクハラか?)、4年前の入部歓迎会で自分が何を話したかとかも覚えている(生きるのにあまりに向いていないな)。幼稚園で本棚を作る際、一度に全面にペンキを塗ってしまって先生から「あんたバカね」と言われた記憶は17年経った今でも健在だ。先生は覚えてるかなあ。もちろん、覚えてるような人間だったら子どもにそんな言葉を掛ける訳がないのだけれど。


自分自身、言葉ってものに重きを置きすぎているとは正直思う。言葉を信じすぎている。言葉で世界は変わる/変えられると、本気で思っている。しかしそれ故に、大切な人からもらった高価なアクセサリーを普段使い出来ないように、言葉でもって、人間のあいだにある壁を踏み越えるという簡単なはずの作業が出来ない。

そうだとしたら、どうすれば人間関係の壁を越えられるんだろうか。物理的(身体的)な接触も嫌っている人間に、どうすることが?