パエトンの墜落

 

最近とんと長編小説を読んでいない、ということに気づく。そもそも小説自体あまり買うことがないというのもあるし、今本棚にある小説を探してみたところ、ほとんどが1篇100ページくらいしかなかった。長編小説が嫌いということではもちろんない。

理由は一体どこにあるのだろうか。他人の物語に興味がないからというのは悲しすぎるし、むしろ興味しかない(と言うと、嘘だろと突っ込まれそうだが)。そんなことをぼんやり考えていた時、Webマガジン「考える人」に掲載されていた古井由吉の対談を読んだ。(古井由吉といえば、学部3年の頃に『円陣を組む女たち』の評論文を書いた記憶以来である。)この対談中に、「長編小説の下品さ」が指摘されている一節がある。「ことによると長篇小説というのは、人になにかを強要する下品なものなのかもしれない。」

https://kangaeruhito.jp/interviewcat/furuihasumi

何かをばらばらに破壊するのではなく、むしろばらばらなものを勝手に繋げ直す創造的な破壊があり、場合によってはそちらの方が下品と言えるのかもしれない。


「分人」という概念がある。individualに対抗したdividual、すなわち「分割可能なもの」として個人を捉えるという見方だが、ぼくは基本的にこれを支持している。人間は角度を変える毎に違う要素が垣間見えるプリズムであり、それを一幕で語ろうとすること自体が創造の皮を被った破壊行為と言ってもいいのではないか。そうではなく、様々な断片を断片のまま置き去りにするという格好良さもある。物語の補助線を垣間見せることすらない美学が。


新型ウイルスの影響により、様々なところで「偶然性」をめぐる議論が浮かび上がっている。九鬼周造は運命は偶然の一部であると述べているが、逆の方向性もあり得るかもしれないとも思う。すなわち、赤い糸を断ち切るものとしての偶然である。全ての物事に必ずしも意味が存在しないのもまた、偶然性の作用である。近いうちにまとめられたらと思っているけど、考えれば考えるほど瓦解していく未来しか見えない。


こんなご時世だし明るい話題をしようと思うけれども、どうしてもウイルスに引き寄せられてしまうのはなかなかに悲しい。そういった強制力を振り切りたいと願っている。