カルキノスの襲撃

 

つい今しがたコンビニに売ってあったミルクティー味の豆乳飲料を買おうと手に取ったところ、小さく“for women” という文字がプリントされているのが目に入り、思わず反射的に棚に戻してしまった。結局30秒後には再度買い物カゴに放り込み直したのだが、その自分の行為が心に引っ掛かったまま、帰り道やや悶々としていた。せっかくの散歩くらいは晴れやかな気分でやりたいものだが、そういう性格なのは仕方ないのかもしれない。


YouTubeの広告でブラウンのシルク・エキスパートが出てきても、普段そんなものを自分が意識することはない(「そんなもの」という言い方が全てを物語っている)。自分にとってそれは取るに足らない、視野の外のものだからだ。

とはいえ、視界にないものを我々が全て認めていないかというとそういうことではない。例えば映画を考えてみよう。ある2つのシーンにおいてカメラワークが切り替わったからといって、我々は話の文脈が追えなくなったとは考えない。カメラワークが変わっても、そのシーンは同一の空間と時間のもとで繋がっていると考えるのが自然であるからだ。すなわち、映画はそのフレームの外で繋がっている。より正確に表現するなら、映画はフレームの外で、我々の理性によって繋げられている。自分の視野の外にまで想像力を広げるという試みは、特段難しいことではないはずなのだ。

 

Twitterで最近「自分だったら政治家の給与を自分たちの平均まで下げる」という発言を見た。是非について明言は避けておくとしても、その論理を反転すれば、我々は他人に対して一切語ることが出来なくなる、ということは容易に想像がつく。

シュミットの友敵理論に則るかのような分断が日々加速していく中で、そのような反転の可能性を想像できるかどうかが問われている。足に噛みついてきた蟹を踏み潰すのではなく、掬い上げるということである。