5月18日

 

顔の思い出せないある知り合いが出てくる夢を見た。顔はなかったのにどうしてその人だと分かったのだろうか。夢の内容は思い出せないけれど、とても心地良い夢だった。雲の上で寝転ぶようなそんな感じの。


ここ1週間ほど、朝の5時にすっきりと目が覚めるようになった。食事の量を意図的に減らしてから調子がいい気がする。気分のままに体重計とかいう悪い文明をポチったので、届いたら2〜3年ぶりくらいに乗ってみようと思う。

朝は白米0.5合に、鶏胸肉のかけらと長葱を焼いたやつを合わせて食べた。作り置きの解凍でも十分だけれど、長葱は焼きたてが一番美味しい。学科のある先生が、葱は焦がしてとろとろになった中身を食べるのが最高だとツイートしていたのを思い出し、調べてみたらどうやらもう2年も前のことらしかった。


少し身体を動かしてシャワーを浴びる。FLOWの「ブレイブルー」を口ずさみながら、昨日読んだ「身体の狂気と言語の狂気」という書評を思い出す。豊かな身体性を制限するものとしての言語なのか、あるいは身体こそが無限に増殖する言語を繋ぎ止めるのかという問題はまさに自分がこれから扱わねばならないことなのだ。

ドライヤーで髪を乾かした後、コーヒーを切らしていることに気付いてコンビニに行く。道すがら「パチンコのチャンス演出なんて女の子から言われる「好きだよ」くらいの信頼度なんだよ」とか意味不明なことを呟きながら歩く。昼に飲む「一日分のビタミン」と夜に食べるサラダ、そして迷った挙句に金のバームクーヘンを手に取る。昼にお腹が空いている日はツナマヨのおにぎりを買ったりするのだけれど、今日はあいにくお腹が空いていない。


帰ってきてTLを見たり、積み本から手に取った『イメージを逆撫でする』のうちの1章を読んだりしながらぼんやり物事を考える。考え事はあらゆるところに飛躍したり、また戻ってきたりする。パラパラ漫画ってあまり見なくなったな、『連続と断絶』読みかけじゃん、このツイート面白いと思うんだけど意外と伸びない、走馬灯って紙芝居みたいなイメージよね映画みたいなのじゃなくて、ていうかそもそも映画とパラパラ漫画って本質的に違わないのか、面接って受ける企業のために自分の人生をおいしく切り取って繋げなおさないといけないのキモすぎて吐き気がする、あいつ卒論何書くんだろう、男親の役割って結局は憎まれること以外ないんじゃないか、考えてることを深めてくれる窓口が欲しいな、あれ面接も構造的には走馬灯と同じだ、終わり方って難しいよね、あいつは何を考えて死んだんだ、………。

考えるだけでなく実際にしゃべりはじめるのは一般的なことなのだろうか。脳内の知り合いに考えを話してみたり、今日は架空の人物の卒論発表にコメントしたりした。「「こういったひとりごとを言うんだよ〜」と居酒屋とかで知り合いに話している」ことそれ自体を1人で誰かに話すこともある。モニタリングのドッキリを仕掛けるのだけは勘弁して欲しいと願う。


17時過ぎになって夕食の時間になった。味のないコンビニのサラダをそれ単体で食べていたら本当の無を勝ち取った気がしてきて、なぜか気分がハイになってきてしまった。いくらでも考えが広がるしいくらでも深く面白く話せるような気分がして、考えを聞いてくれそうな何人かの顔はぼんやり浮かぶけれど、変な話に付き合わせるような人間では到底ない。昇華の手段として日記を公開することにした。


1Lのコーヒーはまだ半分残っている。なくなる頃にはもう22時くらいになっていて、小難しい本も1章くらいは読み進めているだろう。