一番好きなお菓子

 

母親の買い物にのこのことついていくような頃から「紗々」というチョコレートが好きで、よく食べていた。公文式とかいう教育機関のおかげでひらがなもアルファベットも読めていたので、それを「さしゃ」と読むことも理解していたし、何よりあの特徴的な線描にベストマッチした名称だなあと薄々思っていた気がする。しかしあんな繊細なお菓子を好きでいながらこんな雑な大人になってしまったのは、まことに残念というほかない。

つい先日、抹茶味の紗々を見つけ、10年ぶりくらいに手を伸ばしてしまった。もちろん美味しかった(まあ抹茶ならなんでも美味しい)けれども、久々に食べると口にべったり残る感じが気になった。もし女の子から別れを切り出されてもウジウジ食い下がるまいと決心した。


好きな食べ物がとっさに出ず返答に詰まることがある。大学生にもなって、部活の先生から「何が好きなの?」と聞かれた際に返答に困り、横にいた同期から「チーズハンバーグとかじゃない?」と代わりに答えてもらうような人間はおそらく他にいないだろう。

しかしそんな自分にも、人生で最高に美味しいと感じた食べ物がある。『チョコレート戦争』という児童書をご存知だろうか。町一番との呼び声高い洋菓子店のショーウィンドウに飾られているお菓子の城を見ていた小学生の光一と明だが、その目の前でふいにショーウィンドウのガラスが割れ、そのガラスを割った犯人だと濡れ衣を被せられる。それに憤慨した2人が大人たちに反逆するために、そのショーウィンドウからお菓子の城を盗み出そうとする……というあらすじだったと思う。

初めて読んだ時から、この洋菓子店のエクレア、「エクレール」の虜にされてしまったのだ。もう15年以上は経っているわけだが、このエクレアを超える食べ物に未だ出会えていない。


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エクレール それはシュークリームを細長くしたようなもので、シュークリームと違っているのは、表面にチョコレートがかかっていることだ。これをたべるには、上品ぶってフォークなどでつついていたら、なかにいっぱいつまっているクリームがあふれだして、しまつのおえないことになる。そばを、つるっとすくってたべるように、いなずまのような早さでたべなくてはならない。そのため、フランス語でも、この菓子の名前を「エクレール(いなずま)」というのである。

明は、口をできるだけおしあけて、その大きなエクレールを口のなかにおしこんだ。すると、かたいようでやわらかい、やわらかいようでかたい、その皮のなかから、かおりのよいクリームが、どっとながれこんできた。

うまかった、舌がしびれ、口じゅうがとろけそうなほど、そのエクレールはうまかった。明は、目をつぶった。

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部活の朝練が終わった後によくシュークリームを食べていたわけだけれども、もしかしたら自分は、幼き頃に感じたエクレールの幻影を大人になってから追い続けていたのかもしれないと思い始めてきた。「三つ子の魂百まで」ということわざがそういうことだとすれば、ぼくは死ぬまでこのままエクレールの亡霊に呪われ続けるのだろうか。

あのエクレールは確かに最高の食べ物であり、そしてシュークリームのイデアだった。「肉体は魂の牢獄である」とプラトンが説いたのは単なる偶然だろうか? 上のことわざから考えるに、プラトンエクレールの話をしていたのかもしれない。すなわち魂とはいなずまのようなクリームであり、シュー皮こそが溢れんばかりの欲望の源泉を抑え込むための肉体だったのだろう。


子どもを育てることになったとしても、『チョコレート戦争』だけは家庭内で有害図書指定を下すつもりである。