4月雑記(と、結構5月)

 

拝啓

 

 「19歳ひとり暮らし読書女子(自称)」から届いた迷惑メールの文面に丹念に目を通してしまうというアクシデントがつい最近あって、桜が散っても人はすぐには変わらないなと思ってしまいました。会ってみたいという気持ちがなくもないのですが、ちょっと遠慮しておこうと思います。あなたはおそらく知らないでしょうが、現代語でいうところの「自粛」ってやつが流行っているんです。

 

 人生で一番はじめに好きになった女の人の話をしたことはおそらくなかったと思いますが、名前を挙げるなら、『名探偵夢水清志郎』シリーズに出てくる雑誌『セ・シーマ』の編集者、伊藤真理さんなんじゃないかなという気がしています。「72時間はたらけますか?」というスローガンのブラック企業でバリバリに働いてるところ、勝手に改造した社用車で警察も追いつけないような爆速運転をかますところ、黒髪のショートボブで女子大生と間違えられるくらいかわいいところといったいくつもの要素は幼心をくすぐるには十分すぎたわけで、それ以来「仕事らしい仕事をしている人」に無性に憧れを感じるようになってしまいました。令和の時代にはそんな価値観はもうそぐわないものだと思いますが、やっぱり今でも、そんな姿の結晶が心の底にうっすらと降り積もって理想となっている気がします。お得意の逆張りですかと言われようとも、少なくとも若いうちは、伊藤さんみたいに人権がなくなるくらいまで働きたい(人権がなくなっていいとは言っていない)と思っています。部署の中でもかなり忙しいところに配属されたのは、あなたのおかげなんでしょうか?

 ちなみに、二番目に好きになった女の人は常守朱です。アニメをつまらないものと気嫌いしていたあなたには分からないかもしれませんが、この国の行き着く先が監視社会しかないのなら、どうせなら彼女に監視されたいですよね。

 

 あなたがスーツを着ているところなんてほとんど見たこともなく、そして会社勤めだったころの話も聞けずじまいのままになってしまいました。会社をやめて借金してでも自営業を始めたあなたを見ていたからこそ、「ホワイトカラーで働く」なんていうのは完全に無関係な生き方だと思っていたし、はっきりとつまらないものなんだろうなと思っていたし、今でもまだ他人事みたいだなと感じています。そしてその生き方を引き受けた今、働くことがつまらないと全く思っていないかと問われると、否定はできないと思います。ただ、最近見たある動画の中である人が言っていた「『つまらない』の中にはそう思っている自分も含まれている」という言葉がなんとなく心の中に引っかかっていて、それ以来すぐに「つまらない」と決めつけてしまうようなのはもうやめようと思いました。他の人にそう思われるのはいいけれど、少なくとも自分自身にとってつまらないやつでは絶対にいたくないから。おかげさまで今は、楽しく仕事と向き合えていると思います。ええ、配属もかなり恵まれていて、自分に相当向いているところにつけてもらうことができました。比較的昇進もスムーズにいくところだと聞いているので、じっくりと腰を据えて頑張ってみようかなとは思っています。願わくば少しくらいは仕事の話をしたかったなと思うけれど、お互いあまり話をするような人間でもなく、一言二言くらいで終わるのは容易に想像がつく気がしています。

 

 とはいえ、ぼくはもう、そんなあなたの声の記憶が徐々に薄れ始めてしまいました。夢の中に出てくることもほとんどなくなって、今は生前のLINEのトーク履歴と、死に際に貰ったネクタイピンがその記憶をかろうじて繋ぎ止めているようなものです。普段半年ごとにトーク履歴を全消去する人間が、この二年間、何度履歴の消去に踏み切ることができなかったか。梅雨の季節のクールビズもとても気楽だけど、でも心のどこかで、ピンをつけられないことに若干の寂しさを覚えています。この2つを失ってしまうと、もう本当に取り戻せなくなってしまうのではないかと悩んでいます。喪失も正解だといえるような逆転劇は期待するものではなく、自分から始めていくものだというのに。

 そう、あなたの声がまだ思い返せるうちに、聞いておきたいことがあります。ここ最近、ぼくの周りで、親しい人を失った人が立て続けに何人かいました。当の本人が悩んでいるのを見て、失礼なことだとおもいながらも、自分に重ね合わせてしまうことがありました。たぶんあなたなら、こういうときの人付き合いの仕方を教えてくれたんじゃないかなと思うのです。親に捨てられたあなたに比べたら、ぼくの喪失なんてとても当たり前で、そして取るに足らないものだと分かってはいます。分かっているからこそ、あの朝に涙は流さなかったのです。たぶん2年前の1月4日、わずか一滴でも涙を流していれば、今ほどの後悔はなかったのではないかと思うばかりなのです。涙は死者のために、そしてそれ以上に生者のために。こんな個人的なことを手紙にするあたり、人付き合いが分かってないと怒られそうな気がします。ああ、会社に入るときに「人に興味を持っていない」と指摘されて笑ったことがありました。小さい頃のぼくは、あなたは母と比べて人に興味を持っていないのだろうなと思っていました。だけど、本当は真逆だったんですよね。あなたが亡くなった後に勝手に遺品を全て処分する母を見て、自分の人への興味のなさの由来が分かりました。男親は憎まれ役くらいがちょうどいいと、そう思います。

 

 いいこともたくさんあります。引っ越し先はとてもいいところで、休日なんかは仲のいい何人かがおうちに遊びに来てくれています。そうそう、ボタン一つで浴槽が張られるなんて信じられます?やっぱり蛇口をひねって貯めるお湯じゃないとあったかくないですよね。身体の問題じゃなく、気持ちの問題で。

 

敬具

 

感情労働社会 vs 感情崩壊修士

 

なーーーにが感情じゃいとなるくらいまで自我を失った経験と書いて、修論執筆と読みます。実際真面目に書いたのは1ヶ月ほどだし、「感情壊れる」とか言ってたのはもちろん冗談ではあるけれども(冗談であんなツイートの量になる?)、あの期間は人生で一番にしんどかったように思う。10万字程度が目安という終わりの見えなさ、ひたひたと迫りくる提出〆切の足音、全く思うように筆が進まない一方で爆速で脈打つ心臓の鼓動。その隙間から、研究調査に協力してくれた後輩の顔が走馬灯のように浮かんでは消える。走馬灯と言っているのは、当然感情が墓石の下に眠ったからである。「にんげんがさき、しゅうろんはあと」だと分かってはいても、自分の場合3年まで行ってしまうと生活費を賄うことが出来ないので、結局「しゅうろんがさき、にんげんはとうぜんあと」になるのだ。


卒論は親の死に目と時期が重なったこともあって大変といえば大変だったけれど、今考えればたかだか3万字程度、今回の修論であれば先行文献の整理と理論的な枠組みの提示だけでゆうに通り越すだけの文字数しかなかった。徹夜で書き上げた原稿を朝一で仮製本し、糊付けが甘くバラバラになりそうな卒論を(当然論理構成はもっとバラバラなのでページが組み変わっても影響はなかったかもしれない)、その足で急いで窓口に提出したあの日からもう2年が経とうとしている。書くことが出来ないままこの世に産み落とすことができなかった論点ちゃんがいくつもあることを考えると、提出しても全くやり切った感がなかったことを思い出す。あの日の空は青く澄み渡っていて、どこか白々しい感じがした。

前回の反省を活かして計画的に物事を進めることができるのがプロの院生であり、自分のようなにわか院生はすぐに同じ轍を踏んでしまう。踏んでしまうというよりは自ら踏みに行くというのが正しく、それでいて被害者面をするという性格崩壊院生でもある。年末の2ヶ月ほどは深夜2時とかに近所のコンビニに寄って、甘いものを大量に購入する生活崩壊院生になっていた。体重が変わらなかったのは、稽古のお陰で少しばかりはあった筋肉が完全に糖類に置き換わったからだと思う。今は日曜に稽古をすると、水曜とか木曜まで筋肉痛が治らない身体になってしまった。

なお、修論中の蛮行はおおむね以下の通りである。

・「感情壊れる」旨の大量ツイート(病み垢ですか?)

・読みもしない本を大量に買う(まあ普段通りではある)

・つらすぎて知り合いに電凸しそうになる(理性もないので)

・コンビニで無思考で手に取ったお菓子が全部抹茶味なのにレジで気づく(1日4食でもいける)

・筆の進まなさに自制心を失い、無人の部屋で(ただし自分の存在はある)深夜に悪口を叫ぶなどの奇行(認知症になったらめちゃくちゃ迷惑をかけるタイプだと思う)

・予定より大幅に遅れているにも関わらずパチ屋に行くという豪胆さ(ちなみにめちゃくちゃ負けました。ギアスはクソ台)

Bloodborneという粋な世界観のゲームがあり、プレイヤーのステータスの1つに「啓蒙」というものがある。「啓蒙」を使うことでゲームを有利に進められる一方、このステータスによって見えてはいけないものが見えたり、「発狂」という状態異常にかかりやすくなったりしてしまう。文系院に限っていえば、みんな通る道であるように思う。ゲーム内では歩くだけで発狂ゲージが溜まっていくフィールドもあるが、修論執筆においてはそれすなわち自宅のことだ。

 

そんなこんなでやっと書き上げた修論だけれども、結局自分が本当に論じたかったことは6割くらいしか書けずにタイムアップと相成ってしまって、個人的な感覚としては日記を書いただけなんじゃないかという感じもしている。本当は○○や●●の方面にも話を聞くべきだったし、現状大事なはずの△△や▲▲のことについても全く触れられていないままだという後悔の念が、あまりにも強い。それでもそれなりの評価を頂けたのは、別に自分が書いたものがどうというより、調査を行ったところがとても優秀だったということに過ぎない。現役時代、”良い”先輩のコスプレをしていてよかったと思う瞬間である。

修論を書いたあとはまる2日間の冬眠を経て、そこから溜めておいたゲームを消化したり、感情を取り戻すために『感情史とは何か』『歴史の中の感情』『感情と法』の3冊を爆速で取り寄せたりした。しかしそもそも、感情が戻ってこない限りお堅い本が読めるわけもないということに気づくまで数日かかった。結構大事なものを失っている気がする。


一瞬だけ実家に帰省した。「働きだしたら大変なことがあるが」みたいなことを言われたけれど、人間関係よりも大変なものがあるということが身に沁みて分かったいまは、どんな労働環境でも働けるような気がする。がんばって、社会の歯車を回していきます。

 

「ごっこ」に生きる

 

端的に言えば「男らしさ」が重視される男尊女卑的な環境のもとで育ったので、いわゆる「おままごと」をやった(やらせてもらった)記憶がほとんどない。かと言って、ライダーベルトを欲しがって泣き喚いたとかウルトラアイを欲しがっておもちゃ売り場からてこでも動かなかったといったこともなく、遊ぶときにはもっぱら紙にゲーム的なものを自作したり、あるいは家の外でひたする投球練習をしたり、あるいは裏山の中を走り回ったりしていた。小さい頃くらいはヒーローになりたくてもよかったのではと思うが、もはやその時から脇役だったり裏役に回る立ち回りを確立し始めていたということである。ひとりっ子だったからというのもあるからだろうか、「ごっこ遊び」をする人たちを若干冷めた目で見ていたような気がする。

ちなみに、小学校の時にやっていた、男子と女子でチームを分けて鬼ごっこをやる遊びには「男女」という何とも直球な名前がついていた。今思うとなかなか攻めた名前だとも思うけれど、その区分が適用されないものはいない環境だったし、いたとしても黙殺されるような環境だった、ということだ。


(文系)大学院生となった今改めて思うのは、社会に出ていることが「一人前」の確たる証拠であってそうでないご身分は皆「一人前でない」存在だとみなされてしまうという事実、そして自分はなによりもそれが嫌いなのかもしれない、ということである。別に自分や学生だったりを一人前だと見てほしいのではない。むしろその逆で、社会に出ていたって、あるいは親になったところで別に一人前じゃないだろうと感じてしまう。もちろん1人で(あるいは1チームで)生きる分を稼ぎ出すことが大事だというのはよく分かるし、そこに対する負い目がないわけではない。昨年法事の時、父親の知り合いから「大学院なんて行ってないでお母さんを楽にさせんと」みたいなことを言われたのは記憶に新しいし、それは十分すぎるほど正義だろうと思う。

卒論を書いた時、1章丸々使って文化人類学における子どもの扱いについて論じた。子どもたちは少しのことで怒り嘆き悲しみ感情を動かされる動物であり、それは理性的な大人のあり方とはまるで異なる。そんな理性的存在と化すために通過儀礼が存在していて、そのイニシエーションを通じて子どもは大人になる。「大人になる」というのは仮面を付け替えるようなレベルではなく、別の存在として生まれ変わることを意味している。

新社会人に期待されることもおおむね同じで、入社してからは学生の時のようではいけないと言われることもある。あるビジネスニュースサイトでは「大学で名刺交換の仕方くらい教えないか」という経営者のインタビューらしきものが掲載されていて、相次ぐ批判コメントと擁護コメントで炎上していた。結局そこでも求められるのは社会人という存在への脱皮であり、それが成し遂げられていないものは断罪される。バカらしい話だ、と思う。少なくともパチンコ屋でバイトをしている経験からいうと、人間に理性なんて機能は搭載されているものかと思ってしまう。


結局みんな「ごっこ遊び」をしているに過ぎなくて、家族ごっこをやっていたり、あるいは社会人ごっこをやっていたり、そうやってお金を稼いだりしているんじゃないだろうか。みんな何かしらの仮面を被っていて、それを色々と付け替えている、ただそれだけのことに過ぎない。学生には学生というペルソナがあり、社会人には社会人のそれがある。強いて言えば、そのことにしっかり向き合える人間こそが一人前というか、なんとなく魅力があるような気がする。「ごっこ遊び」を冷めた目で見るのではなく、逆にそれを認めて貫き通していく姿勢、自分に足りていないのはまさしくそれなんだろうなという気がする。


その意味で最近魅力を感じるのが狩野英孝である。なんでだろうと考えてみたけれど、10年前のナルシストキャラを踏まえつつ、それがいい感じに残って熟成されはじめてきたからのように思う。YouTubeチャンネルも開設しているのでぜひ見てみてほしい。

ちなみに、「香水」という曲を彼のクセありバージョンでしか聞いたことがなく、原曲を聞いたところあまりの物足りなさに笑ってしまった。素顔はそれはそれで大事である。

 

ラジオの文体 ~「ラジオの身体」を聞いて考えたこと~

 

もくじ

 

好きなYouTuberって言いにくい

好きな芸能人とかに比べて好きなYouTuberを公言するのはちょっと気恥ずかしい気がするのはなんでだろうと思うけど、やっぱりコンテンツが子供向けみたいなイメージが根付いているからだろうか。当方23歳男性、あまり周りでもそういった話をしているところを見かけないし、みんなそういうものに触れないように生活しているような気がしないでもない。

 

24歳という焦り

そういえばそろそろ24歳を迎えようとしていて、うまく言えない焦りのようなものがある。22歳から23歳になるときにもあったけど、今年のそれはもう一段階レベルがぐーんと上がっているような気になる。その焦りの理由は、やっぱり学校から抜け出ていないこととか、社会に出きっていないところとかにあるんだろうなとぼんやり思う。別に働いている人がえらいとかそういうことはないんだろうけれど、自ら立つと書いて自立と読む、みたいなところはあるわけで。

 

瀬戸さんの動画「ラジオと身体」を見た

さて特定のYouTuberの動画を見ることは実はほとんどないのだけれど、瀬戸さんの動画だけはなぜか(本当になぜか)好きで、かなり昔から見続けている。その人がつい先日「ラジオの身体~ドリキンさんとの対談を終えて考えたこと~」という動画を出していて、この動画がすごくよかった。というのは、いままさに自分がぶち当たっていたことについて話されていたからだ。

www.youtube.com

この動画の良さを伝えるのがかなり難しい。というのも、これは瀬戸弘司という人の動画をある程度見続けていないとなかなか分からないからである。まあそれは承知で、かいつまんで説明したいなと思う。

 

この瀬戸弘司という人は基本的にはガジェット系商品紹介YouTuberである。「基本的には」と言っているのは、ローソンのチョココッペパンに怒っていたり、新型Mac Proで大根をすりおろしたり、「2016年度買ってよかったものランキング」を発表する際に暴れすぎてパンツの股を破いたりしているからである。

そんな瀬戸さんの動画の最大の特徴は(そして自分が見てしまう理由が)、コンテンツの面白さだけでなく、舞台で培われてきた演劇力と確かな編集力に裏打ちされた上質なエンタメ感にあるように思う。どの動画一つにしても視聴者を飽きさせないような工夫がされていて、一見子どもっぽい演出でもしっかり大人向けの動画としてこだわって作られている様子がうかがえる。とはいえほとんどの動画でなぜか被り物をかぶっているので、子ども向けといえば間違いなく子ども向けなのだが……。

しかしそれ故に瀬戸さんの動画には弱点があって、それは度々動画投稿を休止するということだった。長いときには半年以上動画を出さないこともあって、これはYouTubeを専業でやっている人としては普通はありえないことだと思う。視聴者側もそれに慣れてきて、コメント欄で死亡説が流れることはもっぱらだった。視聴者の期待したものを作るために、一つの動画を作るために、相当な気合をチャージしないといけない。言い換えれば、チャージするまで動画は出したくても出せない状態になる。「ラジオの身体」、あるいはこの動画の発端となったドリキンさんとの対談動画の中でも語られていたように、瀬戸さんは一つの動画についても「一秒たりとも目を離すなよ」というくらいの気持ちで作っていて、それ故に見る方も気合を入れて見ないといけないし、作り手の瀬戸さん自身でさえ「見るのに疲れる」というくらいなのだ。

 

「舞台の身体」と「ラジオの身体」

そんな瀬戸さんの突破口となったのは、「舞台の身体」ではなく「ラジオの身体」でYouTubeを進めていくことなのだ、という気付きだった。一言でまとめることは到底できないのでここは動画を見てほしいところではある。それでも強いてまとめるなら、これからは観客の目を離させないように無理に演技をしたりテンションをあげたりするのではなく、お互いにとってゆるく無理のない自然体でいられるような形でYouTubeを撮っていきたい、ということだ。6年ほど変えられなかったこの身体性を、40歳を迎えようとしている今こそ脱臼させようという決意をしている動画である。

なんだ当たり障りのない意見じゃないか、と思うかもしれない。けれども瀬戸さんの動画を見続けてきた自分にとってはかなり衝撃的だし、率直にうらやましく思った。うらやましいというのは、40歳になっても変わろうとしているのがなんかいいなと思ったから。そして、最近まさに自分が出来ていないことをやろうとしているように思えたから、である。

 

自分の文章との向き合い方

そう、最近ちょうど似たようなことを考えていて、文章を書くのにすごく心理的なハードルが高くなってきたなと感じることが多くなった。それはブログ一つでもそうだし、修士論文の段落一つにしてもそうだし、もしかしたらツイート一つにしてもそうなってきたのかもしれないな、と思っていたところだった。具体的な理由が何かあるという訳ではない。インプットが明らかに減っているからというのもあるだろうし、今の世の中に鬱々しているからというのもあるかもしれない。ただやっぱり一つアウトプットするのにさえ相当な気力が必要で、なかなか書けるような状況にないなあということだけは明らかに自覚があった。もう一つレイヤーをあげてしまえば、このまま24歳を迎えてしまうことへの焦りそのものに直結するようなことにも間違いなくつながっているだろうという確信もあった。

もちろん自分は文筆を仕事としている訳ではない。けれども何かを発信することが全くないかというとそんなことは到底なく、人はみな何らかを発信していくものだと思う。発信という言葉を使うと大げさに思われるかもしれないけれど、人と人、あるいは人とモノを結ぶコミュニケーションには全てそれが当てはまると思う。水泳の練習で「息継ぎで吐くことを意識していれば自然と吸えるようになる」と教わったことがあるけれど、まさに同じように、発信と受信も表裏一体のワンセットなんじゃないだろうか、と思う。

 

ベンヤミンと「ラジオの身体」

ヴァルター・ベンヤミンという思想家をご存じだろうか。『複製技術時代の芸術作品』などの著作でおなじみの彼が提唱した概念に「気散じ」というものがある。聡明な彼は1936年の時点において、観客の芸術鑑賞の形が一点集中ではなく、リラックスしてぼんやりと眺める注意力散漫な鑑賞法になることを既に予見していた。現実、YouTubeだったりNetFlixだったり、あるいは各種SNSだったり、もはやいくつもの企業によって今を生きるぼくたちの時間は限界まで奪い合われているように思える。

「ラジオの身体」の動画を見ていて(より正確には、聞いていて)この「気散じ」概念がパッと頭に浮かんできたけど、瀬戸さんの「ラジオの身体」という言葉は、このベンヤミンを上書きするもののように思えた。誰でも発信者となれる時代こそ、観客としての「気散じ」ではなく発信者としての「気散じ」を成立させるための身体性、すなわち「ラジオの身体」を意識することが必要だということなのではないだろうか。このあたりは、別にぼくが考えている「DIY」というものとも絡んでくるけれど、ここではあまり触れないようにしておきたい。

 

「ラジオの文体」でブログを書いてみる宣言

そんなわけで、瀬戸さんに感化されたうちの一人である自分も、今までとは違った形でブログを書くことに挑戦しようと思った。いままでのブログ記事はだいたい1本書くのに短くても3時間、多いときは6時間くらいかかっていたのだけれど、思ったことをもっとフランクに、だいたい30分~1時間の制限で即興的に書いていくことが増えるかもしれない。毎日は更新しないけれど、なんとなく週2日ペースを保てればいいかなと思っている。これを瀬戸さんに倣って「ラジオの文体」と名付けることにしてみよう。今日はその「ラジオの文体」の軽いお試しである。

これまでの小難しくて抽象的な記事は一旦置いて(たまに書くかもしれないけど)、もっと実感に即した”本物のブログ”をやっていこう。そういえば2020年の目標は「まるくなる」でしたね。

 

コロナ禍就活感想記

 

面接は、どこまでいってもカードゲームだ、と思った。別に、面接は楽しかった。知らない人相手に「自分が何者でこういう面白いことを考えていて……」と語る経験は中々ないし、失敗したとしても恥はかき捨てで終わるのも助かる。自分が考えていることについてはどんな面接官も及ばないだろうくらいの自信はあったので(これは嫌味な自慢に聞こえるだろうし実際そうだけど、大学院で苦しみながら思想哲学に触れている自分自身への矜恃でもある)、どんな面接でも気後れすることなく悠々とした態度で臨めた。面接に落ちたのは一度だけ、某広告会社の面接に落ちたけれど、それもこちらの負けを十分認めることができて満足のいく面接だった。

しかしこの「楽しさ」も、実は薄氷のように危うい基盤の上に成立していたのではないか、と改めて思う。それは、ある企業に入るために、自分の人生のピースを恣意的に編集して都合の良い単線的な物語を作り上げなければならないという暴力性だ。


「哲学科の同級生(女)が就活の説明会で「自己分析って分析する自己と分析される自己が分裂してしまうからできないのでは?」という質問をして、「もっと適当にして良いです」という担当者の返答に「適当にやって自己が分析できるなら苦労していない」と激怒していたの最高にツボである。」という数年前に見たネタツイがずっと心に残っていて、時々ぼんやりと頭に浮かぶことがあった。

ぼく自身、本屋で売られているようなバイブルには一切手を伸ばしていないが、自己分析はしっかりやっている。というかむしろ、就活をする段階になってわざわざ本を買わなければならないほど、普段から何も考えずに生きているわけではない。自分がなぜこの部活を選んだのか、この役職を任されたのか、あるいはなぜこの競技を選んだのか、またはどういう風に同期や後輩と接してきたのか、部活という一つのジャンルにおいても様々な選択があり、意図があり、背景がある。その都度考えて進んでさえいれば、それは十分すぎるほどの自己分析になると思う。そしてその一つ一つを、次いで過去の自分、さらには現在の自分と結びつけていくことで物語が描き出される。最終的にそれを志望する企業の理念に結びつけられれば勝ちとなる。

やや横道に逸れるようだが、そもそも「自己分析」が本当に「自己分析」なのかと言われれば決してそうではなくて、結局のところ、本というメディアを用いるのか、他者という鏡を用いるのかという違いに過ぎないのだと思う。結局自分だけで何かを創り出すことは出来なくて、その裏には必ず既存の積み重ねであったり、あるいは対称的な他者の存在がある。研究にしても料理にしても、あるいは自己分析にしてもそれは間違いない。既にある小径を頼りにしながらあるところで少しだけ草むらに分け入ったりすることでしか、ぼくたちは新しい物語を紡ぎ出すことはできない。


面接は、どこまでいってもカードゲームだ、と思った。短期間で、場に強くインパクトのある札を出せたものが勝つ。相手がQのペアを出してきた時に、自分はKかAか、はたまた2のペアを出せるかどうかが全てとなる。場に出すことが出来なければ祈られ、出すことができれば内定をもらえる、そういう仕様になっている。当然ながら手札が強い方が圧倒的に有利だ。手札にも色んな種類がある——学歴や年齢から留学経験、生まれ、趣味まで。その手札がいかに環境に依存しているかが最近問題となっているが、ここでは詳細は省く。

しかし面接がカードゲームと異なるのは、自分がその手札に書き込むことが出来る、という点だと思っている。手札に2のペアがなければ、白紙の紙にそれを書き込めばよい。場が流れるまでの短い間だけでもそのイカサマがバレなければ、その時点で勝ちとなる。ぼく自身、面接でいくつかの手札を過剰に加えたことがある。部活だったらあの同期はこうやって後輩と接していたとか、あるいは大学院での研究内容とか、そういったピースをかなり柔軟に変えていった。それは本来自分の物語にはなかったピースだけれども、それを簡易的にくっつけるということだ。


もちろん皆がそんな戦略を立ててやっているものではないとも思う。しかし企業理念から逆算して、自分の物語のピースを拾い上げていくその就活のあり方こそに最大の怖さがあるように思う。つまり、過程が逆転することで、自分の生き方がまるで自分のものでないかのように変貌を遂げてしまう、ということだ。そしてそれが、それが発話者自体を丸飲みにしてしまうことがある。嘘を重ねて口にするたびにいつしかそれを真実として誤認してしまう例が知られているように、自分の口から話した自分自身の像が、奇妙な怪物のように肥大化することがよくある。

あるいは最悪の場合、その分裂に気付かず、自分が生み出した異形の姿を真実の自分だと信じ続けてしまうこともある。与えられた翼で空高く飛んでいったイカロスは神の裁きを受けて地に堕ちたが、現代、肥大化した人間の目を覚まさせてくれるものはあるのだろうか。

 

一番好きなお菓子

 

母親の買い物にのこのことついていくような頃から「紗々」というチョコレートが好きで、よく食べていた。公文式とかいう教育機関のおかげでひらがなもアルファベットも読めていたので、それを「さしゃ」と読むことも理解していたし、何よりあの特徴的な線描にベストマッチした名称だなあと薄々思っていた気がする。しかしあんな繊細なお菓子を好きでいながらこんな雑な大人になってしまったのは、まことに残念というほかない。

つい先日、抹茶味の紗々を見つけ、10年ぶりくらいに手を伸ばしてしまった。もちろん美味しかった(まあ抹茶ならなんでも美味しい)けれども、久々に食べると口にべったり残る感じが気になった。もし女の子から別れを切り出されてもウジウジ食い下がるまいと決心した。


好きな食べ物がとっさに出ず返答に詰まることがある。大学生にもなって、部活の先生から「何が好きなの?」と聞かれた際に返答に困り、横にいた同期から「チーズハンバーグとかじゃない?」と代わりに答えてもらうような人間はおそらく他にいないだろう。

しかしそんな自分にも、人生で最高に美味しいと感じた食べ物がある。『チョコレート戦争』という児童書をご存知だろうか。町一番との呼び声高い洋菓子店のショーウィンドウに飾られているお菓子の城を見ていた小学生の光一と明だが、その目の前でふいにショーウィンドウのガラスが割れ、そのガラスを割った犯人だと濡れ衣を被せられる。それに憤慨した2人が大人たちに反逆するために、そのショーウィンドウからお菓子の城を盗み出そうとする……というあらすじだったと思う。

初めて読んだ時から、この洋菓子店のエクレア、「エクレール」の虜にされてしまったのだ。もう15年以上は経っているわけだが、このエクレアを超える食べ物に未だ出会えていない。


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エクレール それはシュークリームを細長くしたようなもので、シュークリームと違っているのは、表面にチョコレートがかかっていることだ。これをたべるには、上品ぶってフォークなどでつついていたら、なかにいっぱいつまっているクリームがあふれだして、しまつのおえないことになる。そばを、つるっとすくってたべるように、いなずまのような早さでたべなくてはならない。そのため、フランス語でも、この菓子の名前を「エクレール(いなずま)」というのである。

明は、口をできるだけおしあけて、その大きなエクレールを口のなかにおしこんだ。すると、かたいようでやわらかい、やわらかいようでかたい、その皮のなかから、かおりのよいクリームが、どっとながれこんできた。

うまかった、舌がしびれ、口じゅうがとろけそうなほど、そのエクレールはうまかった。明は、目をつぶった。

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部活の朝練が終わった後によくシュークリームを食べていたわけだけれども、もしかしたら自分は、幼き頃に感じたエクレールの幻影を大人になってから追い続けていたのかもしれないと思い始めてきた。「三つ子の魂百まで」ということわざがそういうことだとすれば、ぼくは死ぬまでこのままエクレールの亡霊に呪われ続けるのだろうか。

あのエクレールは確かに最高の食べ物であり、そしてシュークリームのイデアだった。「肉体は魂の牢獄である」とプラトンが説いたのは単なる偶然だろうか? 上のことわざから考えるに、プラトンエクレールの話をしていたのかもしれない。すなわち魂とはいなずまのようなクリームであり、シュー皮こそが溢れんばかりの欲望の源泉を抑え込むための肉体だったのだろう。


子どもを育てることになったとしても、『チョコレート戦争』だけは家庭内で有害図書指定を下すつもりである。

 

5月18日

 

顔の思い出せないある知り合いが出てくる夢を見た。顔はなかったのにどうしてその人だと分かったのだろうか。夢の内容は思い出せないけれど、とても心地良い夢だった。雲の上で寝転ぶようなそんな感じの。


ここ1週間ほど、朝の5時にすっきりと目が覚めるようになった。食事の量を意図的に減らしてから調子がいい気がする。気分のままに体重計とかいう悪い文明をポチったので、届いたら2〜3年ぶりくらいに乗ってみようと思う。

朝は白米0.5合に、鶏胸肉のかけらと長葱を焼いたやつを合わせて食べた。作り置きの解凍でも十分だけれど、長葱は焼きたてが一番美味しい。学科のある先生が、葱は焦がしてとろとろになった中身を食べるのが最高だとツイートしていたのを思い出し、調べてみたらどうやらもう2年も前のことらしかった。


少し身体を動かしてシャワーを浴びる。FLOWの「ブレイブルー」を口ずさみながら、昨日読んだ「身体の狂気と言語の狂気」という書評を思い出す。豊かな身体性を制限するものとしての言語なのか、あるいは身体こそが無限に増殖する言語を繋ぎ止めるのかという問題はまさに自分がこれから扱わねばならないことなのだ。

ドライヤーで髪を乾かした後、コーヒーを切らしていることに気付いてコンビニに行く。道すがら「パチンコのチャンス演出なんて女の子から言われる「好きだよ」くらいの信頼度なんだよ」とか意味不明なことを呟きながら歩く。昼に飲む「一日分のビタミン」と夜に食べるサラダ、そして迷った挙句に金のバームクーヘンを手に取る。昼にお腹が空いている日はツナマヨのおにぎりを買ったりするのだけれど、今日はあいにくお腹が空いていない。


帰ってきてTLを見たり、積み本から手に取った『イメージを逆撫でする』のうちの1章を読んだりしながらぼんやり物事を考える。考え事はあらゆるところに飛躍したり、また戻ってきたりする。パラパラ漫画ってあまり見なくなったな、『連続と断絶』読みかけじゃん、このツイート面白いと思うんだけど意外と伸びない、走馬灯って紙芝居みたいなイメージよね映画みたいなのじゃなくて、ていうかそもそも映画とパラパラ漫画って本質的に違わないのか、面接って受ける企業のために自分の人生をおいしく切り取って繋げなおさないといけないのキモすぎて吐き気がする、あいつ卒論何書くんだろう、男親の役割って結局は憎まれること以外ないんじゃないか、考えてることを深めてくれる窓口が欲しいな、あれ面接も構造的には走馬灯と同じだ、終わり方って難しいよね、あいつは何を考えて死んだんだ、………。

考えるだけでなく実際にしゃべりはじめるのは一般的なことなのだろうか。脳内の知り合いに考えを話してみたり、今日は架空の人物の卒論発表にコメントしたりした。「「こういったひとりごとを言うんだよ〜」と居酒屋とかで知り合いに話している」ことそれ自体を1人で誰かに話すこともある。モニタリングのドッキリを仕掛けるのだけは勘弁して欲しいと願う。


17時過ぎになって夕食の時間になった。味のないコンビニのサラダをそれ単体で食べていたら本当の無を勝ち取った気がしてきて、なぜか気分がハイになってきてしまった。いくらでも考えが広がるしいくらでも深く面白く話せるような気分がして、考えを聞いてくれそうな何人かの顔はぼんやり浮かぶけれど、変な話に付き合わせるような人間では到底ない。昇華の手段として日記を公開することにした。


1Lのコーヒーはまだ半分残っている。なくなる頃にはもう22時くらいになっていて、小難しい本も1章くらいは読み進めているだろう。