4月雑記(と、結構5月)

 

拝啓

 

 「19歳ひとり暮らし読書女子(自称)」から届いた迷惑メールの文面に丹念に目を通してしまうというアクシデントがつい最近あって、桜が散っても人はすぐには変わらないなと思ってしまいました。会ってみたいという気持ちがなくもないのですが、ちょっと遠慮しておこうと思います。あなたはおそらく知らないでしょうが、現代語でいうところの「自粛」ってやつが流行っているんです。

 

 人生で一番はじめに好きになった女の人の話をしたことはおそらくなかったと思いますが、名前を挙げるなら、『名探偵夢水清志郎』シリーズに出てくる雑誌『セ・シーマ』の編集者、伊藤真理さんなんじゃないかなという気がしています。「72時間はたらけますか?」というスローガンのブラック企業でバリバリに働いてるところ、勝手に改造した社用車で警察も追いつけないような爆速運転をかますところ、黒髪のショートボブで女子大生と間違えられるくらいかわいいところといったいくつもの要素は幼心をくすぐるには十分すぎたわけで、それ以来「仕事らしい仕事をしている人」に無性に憧れを感じるようになってしまいました。令和の時代にはそんな価値観はもうそぐわないものだと思いますが、やっぱり今でも、そんな姿の結晶が心の底にうっすらと降り積もって理想となっている気がします。お得意の逆張りですかと言われようとも、少なくとも若いうちは、伊藤さんみたいに人権がなくなるくらいまで働きたい(人権がなくなっていいとは言っていない)と思っています。部署の中でもかなり忙しいところに配属されたのは、あなたのおかげなんでしょうか?

 ちなみに、二番目に好きになった女の人は常守朱です。アニメをつまらないものと気嫌いしていたあなたには分からないかもしれませんが、この国の行き着く先が監視社会しかないのなら、どうせなら彼女に監視されたいですよね。

 

 あなたがスーツを着ているところなんてほとんど見たこともなく、そして会社勤めだったころの話も聞けずじまいのままになってしまいました。会社をやめて借金してでも自営業を始めたあなたを見ていたからこそ、「ホワイトカラーで働く」なんていうのは完全に無関係な生き方だと思っていたし、はっきりとつまらないものなんだろうなと思っていたし、今でもまだ他人事みたいだなと感じています。そしてその生き方を引き受けた今、働くことがつまらないと全く思っていないかと問われると、否定はできないと思います。ただ、最近見たある動画の中である人が言っていた「『つまらない』の中にはそう思っている自分も含まれている」という言葉がなんとなく心の中に引っかかっていて、それ以来すぐに「つまらない」と決めつけてしまうようなのはもうやめようと思いました。他の人にそう思われるのはいいけれど、少なくとも自分自身にとってつまらないやつでは絶対にいたくないから。おかげさまで今は、楽しく仕事と向き合えていると思います。ええ、配属もかなり恵まれていて、自分に相当向いているところにつけてもらうことができました。比較的昇進もスムーズにいくところだと聞いているので、じっくりと腰を据えて頑張ってみようかなとは思っています。願わくば少しくらいは仕事の話をしたかったなと思うけれど、お互いあまり話をするような人間でもなく、一言二言くらいで終わるのは容易に想像がつく気がしています。

 

 とはいえ、ぼくはもう、そんなあなたの声の記憶が徐々に薄れ始めてしまいました。夢の中に出てくることもほとんどなくなって、今は生前のLINEのトーク履歴と、死に際に貰ったネクタイピンがその記憶をかろうじて繋ぎ止めているようなものです。普段半年ごとにトーク履歴を全消去する人間が、この二年間、何度履歴の消去に踏み切ることができなかったか。梅雨の季節のクールビズもとても気楽だけど、でも心のどこかで、ピンをつけられないことに若干の寂しさを覚えています。この2つを失ってしまうと、もう本当に取り戻せなくなってしまうのではないかと悩んでいます。喪失も正解だといえるような逆転劇は期待するものではなく、自分から始めていくものだというのに。

 そう、あなたの声がまだ思い返せるうちに、聞いておきたいことがあります。ここ最近、ぼくの周りで、親しい人を失った人が立て続けに何人かいました。当の本人が悩んでいるのを見て、失礼なことだとおもいながらも、自分に重ね合わせてしまうことがありました。たぶんあなたなら、こういうときの人付き合いの仕方を教えてくれたんじゃないかなと思うのです。親に捨てられたあなたに比べたら、ぼくの喪失なんてとても当たり前で、そして取るに足らないものだと分かってはいます。分かっているからこそ、あの朝に涙は流さなかったのです。たぶん2年前の1月4日、わずか一滴でも涙を流していれば、今ほどの後悔はなかったのではないかと思うばかりなのです。涙は死者のために、そしてそれ以上に生者のために。こんな個人的なことを手紙にするあたり、人付き合いが分かってないと怒られそうな気がします。ああ、会社に入るときに「人に興味を持っていない」と指摘されて笑ったことがありました。小さい頃のぼくは、あなたは母と比べて人に興味を持っていないのだろうなと思っていました。だけど、本当は真逆だったんですよね。あなたが亡くなった後に勝手に遺品を全て処分する母を見て、自分の人への興味のなさの由来が分かりました。男親は憎まれ役くらいがちょうどいいと、そう思います。

 

 いいこともたくさんあります。引っ越し先はとてもいいところで、休日なんかは仲のいい何人かがおうちに遊びに来てくれています。そうそう、ボタン一つで浴槽が張られるなんて信じられます?やっぱり蛇口をひねって貯めるお湯じゃないとあったかくないですよね。身体の問題じゃなく、気持ちの問題で。

 

敬具