コロナ禍就活感想記

 

面接は、どこまでいってもカードゲームだ、と思った。別に、面接は楽しかった。知らない人相手に「自分が何者でこういう面白いことを考えていて……」と語る経験は中々ないし、失敗したとしても恥はかき捨てで終わるのも助かる。自分が考えていることについてはどんな面接官も及ばないだろうくらいの自信はあったので(これは嫌味な自慢に聞こえるだろうし実際そうだけど、大学院で苦しみながら思想哲学に触れている自分自身への矜恃でもある)、どんな面接でも気後れすることなく悠々とした態度で臨めた。面接に落ちたのは一度だけ、某広告会社の面接に落ちたけれど、それもこちらの負けを十分認めることができて満足のいく面接だった。

しかしこの「楽しさ」も、実は薄氷のように危うい基盤の上に成立していたのではないか、と改めて思う。それは、ある企業に入るために、自分の人生のピースを恣意的に編集して都合の良い単線的な物語を作り上げなければならないという暴力性だ。


「哲学科の同級生(女)が就活の説明会で「自己分析って分析する自己と分析される自己が分裂してしまうからできないのでは?」という質問をして、「もっと適当にして良いです」という担当者の返答に「適当にやって自己が分析できるなら苦労していない」と激怒していたの最高にツボである。」という数年前に見たネタツイがずっと心に残っていて、時々ぼんやりと頭に浮かぶことがあった。

ぼく自身、本屋で売られているようなバイブルには一切手を伸ばしていないが、自己分析はしっかりやっている。というかむしろ、就活をする段階になってわざわざ本を買わなければならないほど、普段から何も考えずに生きているわけではない。自分がなぜこの部活を選んだのか、この役職を任されたのか、あるいはなぜこの競技を選んだのか、またはどういう風に同期や後輩と接してきたのか、部活という一つのジャンルにおいても様々な選択があり、意図があり、背景がある。その都度考えて進んでさえいれば、それは十分すぎるほどの自己分析になると思う。そしてその一つ一つを、次いで過去の自分、さらには現在の自分と結びつけていくことで物語が描き出される。最終的にそれを志望する企業の理念に結びつけられれば勝ちとなる。

やや横道に逸れるようだが、そもそも「自己分析」が本当に「自己分析」なのかと言われれば決してそうではなくて、結局のところ、本というメディアを用いるのか、他者という鏡を用いるのかという違いに過ぎないのだと思う。結局自分だけで何かを創り出すことは出来なくて、その裏には必ず既存の積み重ねであったり、あるいは対称的な他者の存在がある。研究にしても料理にしても、あるいは自己分析にしてもそれは間違いない。既にある小径を頼りにしながらあるところで少しだけ草むらに分け入ったりすることでしか、ぼくたちは新しい物語を紡ぎ出すことはできない。


面接は、どこまでいってもカードゲームだ、と思った。短期間で、場に強くインパクトのある札を出せたものが勝つ。相手がQのペアを出してきた時に、自分はKかAか、はたまた2のペアを出せるかどうかが全てとなる。場に出すことが出来なければ祈られ、出すことができれば内定をもらえる、そういう仕様になっている。当然ながら手札が強い方が圧倒的に有利だ。手札にも色んな種類がある——学歴や年齢から留学経験、生まれ、趣味まで。その手札がいかに環境に依存しているかが最近問題となっているが、ここでは詳細は省く。

しかし面接がカードゲームと異なるのは、自分がその手札に書き込むことが出来る、という点だと思っている。手札に2のペアがなければ、白紙の紙にそれを書き込めばよい。場が流れるまでの短い間だけでもそのイカサマがバレなければ、その時点で勝ちとなる。ぼく自身、面接でいくつかの手札を過剰に加えたことがある。部活だったらあの同期はこうやって後輩と接していたとか、あるいは大学院での研究内容とか、そういったピースをかなり柔軟に変えていった。それは本来自分の物語にはなかったピースだけれども、それを簡易的にくっつけるということだ。


もちろん皆がそんな戦略を立ててやっているものではないとも思う。しかし企業理念から逆算して、自分の物語のピースを拾い上げていくその就活のあり方こそに最大の怖さがあるように思う。つまり、過程が逆転することで、自分の生き方がまるで自分のものでないかのように変貌を遂げてしまう、ということだ。そしてそれが、それが発話者自体を丸飲みにしてしまうことがある。嘘を重ねて口にするたびにいつしかそれを真実として誤認してしまう例が知られているように、自分の口から話した自分自身の像が、奇妙な怪物のように肥大化することがよくある。

あるいは最悪の場合、その分裂に気付かず、自分が生み出した異形の姿を真実の自分だと信じ続けてしまうこともある。与えられた翼で空高く飛んでいったイカロスは神の裁きを受けて地に堕ちたが、現代、肥大化した人間の目を覚まさせてくれるものはあるのだろうか。