ラジオの文体 ~「ラジオの身体」を聞いて考えたこと~

 

もくじ

 

好きなYouTuberって言いにくい

好きな芸能人とかに比べて好きなYouTuberを公言するのはちょっと気恥ずかしい気がするのはなんでだろうと思うけど、やっぱりコンテンツが子供向けみたいなイメージが根付いているからだろうか。当方23歳男性、あまり周りでもそういった話をしているところを見かけないし、みんなそういうものに触れないように生活しているような気がしないでもない。

 

24歳という焦り

そういえばそろそろ24歳を迎えようとしていて、うまく言えない焦りのようなものがある。22歳から23歳になるときにもあったけど、今年のそれはもう一段階レベルがぐーんと上がっているような気になる。その焦りの理由は、やっぱり学校から抜け出ていないこととか、社会に出きっていないところとかにあるんだろうなとぼんやり思う。別に働いている人がえらいとかそういうことはないんだろうけれど、自ら立つと書いて自立と読む、みたいなところはあるわけで。

 

瀬戸さんの動画「ラジオと身体」を見た

さて特定のYouTuberの動画を見ることは実はほとんどないのだけれど、瀬戸さんの動画だけはなぜか(本当になぜか)好きで、かなり昔から見続けている。その人がつい先日「ラジオの身体~ドリキンさんとの対談を終えて考えたこと~」という動画を出していて、この動画がすごくよかった。というのは、いままさに自分がぶち当たっていたことについて話されていたからだ。

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この動画の良さを伝えるのがかなり難しい。というのも、これは瀬戸弘司という人の動画をある程度見続けていないとなかなか分からないからである。まあそれは承知で、かいつまんで説明したいなと思う。

 

この瀬戸弘司という人は基本的にはガジェット系商品紹介YouTuberである。「基本的には」と言っているのは、ローソンのチョココッペパンに怒っていたり、新型Mac Proで大根をすりおろしたり、「2016年度買ってよかったものランキング」を発表する際に暴れすぎてパンツの股を破いたりしているからである。

そんな瀬戸さんの動画の最大の特徴は(そして自分が見てしまう理由が)、コンテンツの面白さだけでなく、舞台で培われてきた演劇力と確かな編集力に裏打ちされた上質なエンタメ感にあるように思う。どの動画一つにしても視聴者を飽きさせないような工夫がされていて、一見子どもっぽい演出でもしっかり大人向けの動画としてこだわって作られている様子がうかがえる。とはいえほとんどの動画でなぜか被り物をかぶっているので、子ども向けといえば間違いなく子ども向けなのだが……。

しかしそれ故に瀬戸さんの動画には弱点があって、それは度々動画投稿を休止するということだった。長いときには半年以上動画を出さないこともあって、これはYouTubeを専業でやっている人としては普通はありえないことだと思う。視聴者側もそれに慣れてきて、コメント欄で死亡説が流れることはもっぱらだった。視聴者の期待したものを作るために、一つの動画を作るために、相当な気合をチャージしないといけない。言い換えれば、チャージするまで動画は出したくても出せない状態になる。「ラジオの身体」、あるいはこの動画の発端となったドリキンさんとの対談動画の中でも語られていたように、瀬戸さんは一つの動画についても「一秒たりとも目を離すなよ」というくらいの気持ちで作っていて、それ故に見る方も気合を入れて見ないといけないし、作り手の瀬戸さん自身でさえ「見るのに疲れる」というくらいなのだ。

 

「舞台の身体」と「ラジオの身体」

そんな瀬戸さんの突破口となったのは、「舞台の身体」ではなく「ラジオの身体」でYouTubeを進めていくことなのだ、という気付きだった。一言でまとめることは到底できないのでここは動画を見てほしいところではある。それでも強いてまとめるなら、これからは観客の目を離させないように無理に演技をしたりテンションをあげたりするのではなく、お互いにとってゆるく無理のない自然体でいられるような形でYouTubeを撮っていきたい、ということだ。6年ほど変えられなかったこの身体性を、40歳を迎えようとしている今こそ脱臼させようという決意をしている動画である。

なんだ当たり障りのない意見じゃないか、と思うかもしれない。けれども瀬戸さんの動画を見続けてきた自分にとってはかなり衝撃的だし、率直にうらやましく思った。うらやましいというのは、40歳になっても変わろうとしているのがなんかいいなと思ったから。そして、最近まさに自分が出来ていないことをやろうとしているように思えたから、である。

 

自分の文章との向き合い方

そう、最近ちょうど似たようなことを考えていて、文章を書くのにすごく心理的なハードルが高くなってきたなと感じることが多くなった。それはブログ一つでもそうだし、修士論文の段落一つにしてもそうだし、もしかしたらツイート一つにしてもそうなってきたのかもしれないな、と思っていたところだった。具体的な理由が何かあるという訳ではない。インプットが明らかに減っているからというのもあるだろうし、今の世の中に鬱々しているからというのもあるかもしれない。ただやっぱり一つアウトプットするのにさえ相当な気力が必要で、なかなか書けるような状況にないなあということだけは明らかに自覚があった。もう一つレイヤーをあげてしまえば、このまま24歳を迎えてしまうことへの焦りそのものに直結するようなことにも間違いなくつながっているだろうという確信もあった。

もちろん自分は文筆を仕事としている訳ではない。けれども何かを発信することが全くないかというとそんなことは到底なく、人はみな何らかを発信していくものだと思う。発信という言葉を使うと大げさに思われるかもしれないけれど、人と人、あるいは人とモノを結ぶコミュニケーションには全てそれが当てはまると思う。水泳の練習で「息継ぎで吐くことを意識していれば自然と吸えるようになる」と教わったことがあるけれど、まさに同じように、発信と受信も表裏一体のワンセットなんじゃないだろうか、と思う。

 

ベンヤミンと「ラジオの身体」

ヴァルター・ベンヤミンという思想家をご存じだろうか。『複製技術時代の芸術作品』などの著作でおなじみの彼が提唱した概念に「気散じ」というものがある。聡明な彼は1936年の時点において、観客の芸術鑑賞の形が一点集中ではなく、リラックスしてぼんやりと眺める注意力散漫な鑑賞法になることを既に予見していた。現実、YouTubeだったりNetFlixだったり、あるいは各種SNSだったり、もはやいくつもの企業によって今を生きるぼくたちの時間は限界まで奪い合われているように思える。

「ラジオの身体」の動画を見ていて(より正確には、聞いていて)この「気散じ」概念がパッと頭に浮かんできたけど、瀬戸さんの「ラジオの身体」という言葉は、このベンヤミンを上書きするもののように思えた。誰でも発信者となれる時代こそ、観客としての「気散じ」ではなく発信者としての「気散じ」を成立させるための身体性、すなわち「ラジオの身体」を意識することが必要だということなのではないだろうか。このあたりは、別にぼくが考えている「DIY」というものとも絡んでくるけれど、ここではあまり触れないようにしておきたい。

 

「ラジオの文体」でブログを書いてみる宣言

そんなわけで、瀬戸さんに感化されたうちの一人である自分も、今までとは違った形でブログを書くことに挑戦しようと思った。いままでのブログ記事はだいたい1本書くのに短くても3時間、多いときは6時間くらいかかっていたのだけれど、思ったことをもっとフランクに、だいたい30分~1時間の制限で即興的に書いていくことが増えるかもしれない。毎日は更新しないけれど、なんとなく週2日ペースを保てればいいかなと思っている。これを瀬戸さんに倣って「ラジオの文体」と名付けることにしてみよう。今日はその「ラジオの文体」の軽いお試しである。

これまでの小難しくて抽象的な記事は一旦置いて(たまに書くかもしれないけど)、もっと実感に即した”本物のブログ”をやっていこう。そういえば2020年の目標は「まるくなる」でしたね。