「ごっこ」に生きる

 

端的に言えば「男らしさ」が重視される男尊女卑的な環境のもとで育ったので、いわゆる「おままごと」をやった(やらせてもらった)記憶がほとんどない。かと言って、ライダーベルトを欲しがって泣き喚いたとかウルトラアイを欲しがっておもちゃ売り場からてこでも動かなかったといったこともなく、遊ぶときにはもっぱら紙にゲーム的なものを自作したり、あるいは家の外でひたする投球練習をしたり、あるいは裏山の中を走り回ったりしていた。小さい頃くらいはヒーローになりたくてもよかったのではと思うが、もはやその時から脇役だったり裏役に回る立ち回りを確立し始めていたということである。ひとりっ子だったからというのもあるからだろうか、「ごっこ遊び」をする人たちを若干冷めた目で見ていたような気がする。

ちなみに、小学校の時にやっていた、男子と女子でチームを分けて鬼ごっこをやる遊びには「男女」という何とも直球な名前がついていた。今思うとなかなか攻めた名前だとも思うけれど、その区分が適用されないものはいない環境だったし、いたとしても黙殺されるような環境だった、ということだ。


(文系)大学院生となった今改めて思うのは、社会に出ていることが「一人前」の確たる証拠であってそうでないご身分は皆「一人前でない」存在だとみなされてしまうという事実、そして自分はなによりもそれが嫌いなのかもしれない、ということである。別に自分や学生だったりを一人前だと見てほしいのではない。むしろその逆で、社会に出ていたって、あるいは親になったところで別に一人前じゃないだろうと感じてしまう。もちろん1人で(あるいは1チームで)生きる分を稼ぎ出すことが大事だというのはよく分かるし、そこに対する負い目がないわけではない。昨年法事の時、父親の知り合いから「大学院なんて行ってないでお母さんを楽にさせんと」みたいなことを言われたのは記憶に新しいし、それは十分すぎるほど正義だろうと思う。

卒論を書いた時、1章丸々使って文化人類学における子どもの扱いについて論じた。子どもたちは少しのことで怒り嘆き悲しみ感情を動かされる動物であり、それは理性的な大人のあり方とはまるで異なる。そんな理性的存在と化すために通過儀礼が存在していて、そのイニシエーションを通じて子どもは大人になる。「大人になる」というのは仮面を付け替えるようなレベルではなく、別の存在として生まれ変わることを意味している。

新社会人に期待されることもおおむね同じで、入社してからは学生の時のようではいけないと言われることもある。あるビジネスニュースサイトでは「大学で名刺交換の仕方くらい教えないか」という経営者のインタビューらしきものが掲載されていて、相次ぐ批判コメントと擁護コメントで炎上していた。結局そこでも求められるのは社会人という存在への脱皮であり、それが成し遂げられていないものは断罪される。バカらしい話だ、と思う。少なくともパチンコ屋でバイトをしている経験からいうと、人間に理性なんて機能は搭載されているものかと思ってしまう。


結局みんな「ごっこ遊び」をしているに過ぎなくて、家族ごっこをやっていたり、あるいは社会人ごっこをやっていたり、そうやってお金を稼いだりしているんじゃないだろうか。みんな何かしらの仮面を被っていて、それを色々と付け替えている、ただそれだけのことに過ぎない。学生には学生というペルソナがあり、社会人には社会人のそれがある。強いて言えば、そのことにしっかり向き合える人間こそが一人前というか、なんとなく魅力があるような気がする。「ごっこ遊び」を冷めた目で見るのではなく、逆にそれを認めて貫き通していく姿勢、自分に足りていないのはまさしくそれなんだろうなという気がする。


その意味で最近魅力を感じるのが狩野英孝である。なんでだろうと考えてみたけれど、10年前のナルシストキャラを踏まえつつ、それがいい感じに残って熟成されはじめてきたからのように思う。YouTubeチャンネルも開設しているのでぜひ見てみてほしい。

ちなみに、「香水」という曲を彼のクセありバージョンでしか聞いたことがなく、原曲を聞いたところあまりの物足りなさに笑ってしまった。素顔はそれはそれで大事である。