アストライアの双皿

 

誰しもが自分だけの妙なこだわりを持っていて、無意味だと分かっていてもなお貫き通してしまうことがある。「流儀」という、白いテーブルクロスに包まれたような格調高いことばは似つかわしくない。無意味どころかむしろ、そのこだわりは自分の首を絞め得るからである。例えば寅さんが義理人情を重んじるあまりヒロインに振られ続けたり、ルパンが不二子に裏切られて窮地に陥ってもなお彼女にぞっこんなように。しかしそんな自己完結的なこだわりを「美学」と称すのかもしれない。美はどこまでも主観的で、そして自閉的である。


美学というべきかどうかは想像に任せるとして、妙なところで公平性を重んじるきらいがある。後輩の扱いは(表向きは)平等に保っていたつもりだし、受験の時に塾に行かなかったのは何もお金がないという理由だけではない。もちろん他人が何をやろうが知ったことではないが、少なくとも自分にとってはそれが美学であり、あるいは正義と言ってよい。


そんなわけで就活も3月から始めた。もちろん今年は解禁日なんてなかった訳だけれど、それでも3月からの動き出しにこだわった理由はこのひねくれた平等精神にある。そもそも2月以前に始めるような企業には興味がないし、仮に興味があったとしても行くつもりは毛頭なかった。人を出し抜くくらいなら出し抜かれた方が、というのもまたこだわりである。

そんなことを言っているうちに、最近の事情で選考フローがどんどん後退してしまった。4社くらいしか受けていないのでさすがにと思って少し増やしてみたところである。いずれはどうにかなるだろうと思っているけれど、どうにもならなかった時のために文章の練習をしている。


常にフェアプレーを重視するやつがよくアニメやゲームの敵役にいるのを思い出す。弱いキャラではないけど、だいたい裏側には黒幕がいる、くらいのキャラ付けの気がする。そういうキャラは最後に大体負けを見ている。