生涯とは長編作の映画みたいなもの

「一生忘れません」という言葉が好きではない。そう思っていたはずの事柄はほとんど、頭の中からするりと抜けだしてしまった。最近公開設定にしたInstagramの投稿に「展開8.8点は一生の宝物です」とコメントをつけておいたが、これも後ろに「まあ2年程度持てばいい方だと思いますが」と載せるべきかどうか迷った末、空気を読んで消したものなのである。

とはいえ、自分の中で微かに光り続ける思い出があるのは確かである。その多くは激的な喜怒哀楽が伴うものだが、わずかな例外もある。そして昨日、その例外のうち1つが不意に頭に浮かんできた。

 

大学2年の冬休みの話である。引っ越したばかりで新しいところにあまり慣れていなかった頃、近くのコンビニに買い出しに行った。適当にお惣菜とお菓子を手に取ってレジに並ぶと、レジにいたのは自分より背が高い色白の女性店員だった。新人店員かは知る由もなかったが、小銭を受け取る手つきはどうも初々しかった。

さて、買った食料をレジ袋に詰める際である。女性店員が手に取ったレジ袋はお惣菜とお菓子を詰めるにはあまりに小さく、試す前から品物が入らないのは一目瞭然であった。袋を一旦取り替えるかと思いきや、その女性店員は入らないと分かってからもなお小さなレジ袋をパンパンにして品物を詰め終え、何事もないかのように渡してきたのである。

 

1行程度でまとめてしまえば「コンビニの女性店員が間違えたサイズのレジ袋にパンパンに商品を詰めた」という内容に過ぎないし、この内容に共感を寄せる人間などいないだろうけれども、その時の記憶は2年経った今でさえ鮮明に脳裏に焼き付いている。精神分析の専門家が分析すればそれはある種の性的倒錯を象徴するのかもしれないし、単に女性店員が醸し出していた冷たい雰囲気に惹かれただけなのかもしれない。しかしそういった思い出は確実に脳内の一角を占め、ある契機に突如として頭角を表す。

 

人生には星の数ほどの出来事があるけれども、映画の編集作家が素材を取捨選択して繋げるように、今を生きる我々はそれらのうちほんの一部の、それも荒く不完全なスケッチしか描くことは出来ない。映画作家とは異なり、我々は全ての素材をモニター上に並列できるわけではない。けれどもそれ故に、我々はスケッチが色付き生き生きと動き出す瞬間を楽しむ事が出来る。女性店員が今どこで暮らしているのか、はたまたどこかでビニールテープに首を掛けているかは知る由もないけれども、彼女の物語を終わらせたくないと願う自分がいる。

 

個人的に好感を持っている人間こそ多いし、そもそも余程の事がない限り人を嫌うことはない(「そこまで興味を持てない」というのが最も正確かもしれないが)。けれども、心から気に入っているとまで言える人間は本当に僅かだ。そしてよくよく考えてみると、その共通項には、彼ら/彼女らの物語を紡ぎ続けたいという想いがあるような気がする。その想いが一方通行でなくなることが起きれば、それは一生忘れることはないだろう。