全員が納得する そんな答えなんかあるもんか

 

年初のブログで、「自分の枠組みを壊すことが必要で、そしてそんな人/ものを大事にするべきなのかもしれない」と書いた。そこから3ヶ月が経過した。確かに枠組みは破壊された。しかもそれは、自分が思っても、また望んでもいなかったような形で。家族の変化と自分の変化。新たな元号の発表に伴い、いい加減整理しないといけない。道は見えないけれど、見えないからと言って立ち止まっていていいものか。

 

 

年初も年初に父親が死んだ。秋に帰省したときにはそんな素振りも全く無く、「また2月に帰る」「ああ、待ってる」という、ただそれだけの会話で別れた。次に会ったのは死ぬ2日前で、その時には意識がある時とない時とで半々、言葉もはっきりとしたものが出てこないというそんな状況だった。正直、何を言われているのかよく分からなかった。文字はあまりにはっきりと画面に映し出されるけれど、そんなものでは到底表せない何かがあった。もう、見知った父親ではないということだけがはっきり分かった。


死のその瞬間にも立ち会った。別に悲しさも、涙もなかった。ドラマなんかで見るように、心拍数を示すグラフが単調な音と共に一直線になろうものなら少しは違ったのかもしれないけれど、病院を最期まで嫌い続けた父親は、家のベッドで静かに死ぬことを願っていた。まさに最期っぽい少し深い呼吸をしてから、もう次の呼吸をすることはなかった。姉は少し泣いていたかもしれない。母親も泣いていた。泣いていなかったのは自分だけかもしれない。10年ほど前、父親に「お父さんが死ぬ時、涙をぽろっと零してくれればそれで良い」と言われたことは未だに記憶に残っている。小さな頃はいつも怒られて様々な罰を受けていたけれど、涙を見せなかった自分に対して、父親は川の向こうで怒っているのだろうか。


家で葬式もやった。一番安いプランで、一番安い棺に大きな父親の身体は少し窮屈そうに見えた。大学入学を機に上京して、父親の車に乗せてもらうこともほとんどなくなっていたけれど、久々に同じ車に乗った。黒い質素な車は、自分は好みだけれど、多分父親は嫌うタイプの車だったかもしれない。

火葬する前に、最後にお顔に触れてあげればどうですか、と係のおじさんに言われ、渋々顔に触れた。正直に言って、今までの人生で一番嫌いな感触だった。背筋に寒気が走って、すぐに手を引っ込めた。普段「一生忘れない」という言葉はバカにしているけれど、あの冷たくじっとりした重みは、おそらく一生忘れない。

火葬場のスイッチも押した。小さな緑のスイッチはそれなりの押しごたえがあったけれど、あの重みは何だったんだろう。お前の70年分の人生が、お前が遺したかったものが、俺に降りかかってくる重みだったのか?

 

 

父親のことは嫌いだった。完全に男尊女卑的思考の持ち主だったし、ニュースを見ては何でも知ったふりをしていた。自分の理解出来ないものは切り捨てていた(嫌韓思想は特に強かった)。他にもあげればキリがない。そのためだろうか、反面教師的な見方をすることがほとんどだった。そんな父親と寄り添うことを選んだ母親のことは、端的に凄いと思っていた。いわゆる「夫婦」のようなものかと、小さな頃は本気で思っていた。それだからか、東京から帰省するたびに家庭内別居状態が進行していく両親を見てなんとなく心が痛んでいた。特に、父親が母親のことを好きだったことを、知っていたから。古い男には、それを直接伝えたら負けだという価値観がある。もちろん夫婦とはいえ結局は他人であり、言葉足らずでは伝えたいことも伝わらないとわかってはいるけれど、どうやらその考え方は自分もしっかりと受け継いでしまっているらしい。

しかし、「嫌いであること」と「尊敬していること」は矛盾しない。父親の過去についてはほとんど聞いたことがないけれど、唯一本人から直接聞いた話では、父親(=つまりぼくの祖父、ちなみに会ったことすらない)に捨てられ高校を中退しそこから1人で生き抜いてきた、ということらしい。嘘か本当かは知らないとしても、父親の真似は、自分には到底出来ない。


もしかしたら、自分は無意識のうちに、父親の生き方に影響されていたのかもしれない。あまり人に頼らないように、極力一人で成し遂げる。父親は自営業で、機械の修理を全てたった一人でこなしていた。友達もいないように思えた(高校に行っていない以上、おそらくそうだろう)。一匹狼といっても良いのかもしれない。ちなみに父親は狼みたいなカッコいい人間ではない。息子を見れば分かるでしょう?

その集大成として、帰省して父親の手をさすってあげたところ、気に入らないようで払いのけられたというエピソードがある。子どもの手くらい受け入れても良さそうなものだけれど、最後の最後まで父親らしいなと思って笑ってしまったことを覚えている。あの人は、自分らしさを貫き通したまま、こちらを振り返ることもなく川を渡っていった。


これは自分の弱味を見せることになるから隠していたけれど、この3ヶ月間のうちに5回は同じ夢を見ている。父親が生き返るという夢だ。心の奥底では、それを望んでいるのだろうか? 知らなかったことが、あまりにも多い。聞けずじまいだったことが、あまりにも多い。でも、おそらく聞いても教えてはくれなかったんだろうな。

 

 

その知らなかったこと、そして聞けなかったことが徐々に露呈し始めたのが、2月になってからである。自営業を始める上で、そして経営を続ける上で金融機関から借りていたお金が出てきた。そしてこれはつい最近知ったけれど、他にも続々と「お金を貸していた」と言っている人が現れているらしく、結局借金総額はよく分からない。遺産の放棄は今の実家をも放棄することを意味しており、母方の事情もあってその選択も容易ではない。もちろん、父親のツケが回ってくることは重々承知しているつもりだった。小さな頃、父親が電話越しの相手に「もう少し待たんかい」と交渉していたのは借金の話なんだろうなと薄々感づいてはいた(借りてる側なのに上手に出ようとするなよ)。自分の奨学金も含めると、24歳になる頃には借金総額は4ケタを超えるだろうと思う。借金4ケタと60を超えた身寄りのない母親がついてくる冴えない24歳男性って、婚活市場のどこに需要があるんですか? という半ば愚痴のようなことを以前後輩と話したけれど、そういうわけで、一人で生きていく決心を新たにした。分かっていたことだ。思ったより少し早くタイミングがやってきただけのこと。でも、このタイミングだからこそ良かったのかもしれない。自分が大学を卒業しかつ社会的にも元号の変化が訪れるこの年に、こうやって大きな節目を迎えることが出来たことは感謝すべきことだと感じている。

端的に言って、今後の人生に大逆転を起こすチャンスがあるとするならば、早いうちに母親が死ぬこと以外にない。全てを捨ててゼロから始め直すには、おそらくそれしかない。「ここから始めましょう、イチから、いいえ、ゼロから!」という名言(?)が頭に浮かぶ。今自分の中でリゼロが熱い。ちなみに一回も見たことはない。

 

 

はっきり言って、借金なんて全く気にしていない。それなりに人生生きていたら(もちろん就活とかいうのをクリアした前提でだけど)返せるでしょうし。むしろ、自分にとって大きなダメージだったのは、過去が壊れたということだった。この件については万が一姉に見つかると嫌なので詳細は秘すけれど、簡単に言えば、自分が生まれ育ったはずの我が家は、我が家ではなかった、ということだった(これだけでダメージを受けるのは弱すぎると思う節もあるだろうが、実際にはもっと込み入った、父親と姉とぼくの関係を壊すような事情がある)。20年以上何も知らずに、人を傷つけながら生きていたということだ。この一件の進行次第では、思っていた数倍早く、ぼくは母親の面倒を見ることになる。結局未来も壊れている気もするけど、仕方ない。きっと生まれる前から、そういう道を歩む運命だったというだけのことだろう。それでもぼくは、自分の何かを誰かに遺したいと、本気で考えている。

 

 

思ったことを文脈なく書き散らしたけれど、これは誰かのための文章ではない。自分の過去と決別するための文章だ。聞きたいことがあれば何でも聞いてください。話したいことがあれば何でも話してください。みんなは、良い道を進んでいけるといいね。