アンチ・オールカテゴライズ

 

「20層のミルクレープ」を一枚一枚丁寧に剥がし正しいかどうか数える高校同期の姿を見て感じ取ったことは、批判的であるということは全てを疑うということであり、全てを疑うということは孤独である、ということだった。


断片を見つけるとそれらを紡いで物語を作り出してしまうのが人間の性であり、古代の人間は個々の星を結びつけることで星座を編み出した。もちろん現代でも同様であり、多くのマスメディアが、部分的な言説から編み上げた様々な報道を地上波に乗せている。人間は未だに、もしくはこういう時代だからこそ、自分自身が作り上げたものに絶対的な価値を見出しがちである。

高校時代の教室で、「小さい頃は自分が世界の中心だと信じていた」と言ったクラスメイトをみんな笑っていたのだけれど、みんなそうだったはずで、子どもは物語の主人公として生まれる。自分と周りの間には放射状に糸が繋がっているように思われて、その糸は成長するにしたがって一本ずつ残酷に切断される。子どもに残された道は、自分が一断片に過ぎないことを大人しく受け入れるか、もしくは何とか他者との繋がりを復権させようとするかの二択である。

昔から、物語の登場人物の中で主人公が一番好きな人間だったのだけれど、やっぱりそれは自分が一断片に過ぎないということへの恐ろしさの裏返しだったのだろうと思う。物語の主人公は必ずと言っていいほど伏線を回収し、お涙頂戴のハッピーエンドに至る。どんなパズルのピースも彼らの前では孤独ではなく、最終的に統合される運命を迎える。そのようなあり方は、自分の中でどこか魅力的だった。おそらく今でも魅力的に思う。


伏線が見事に回収される物語は、確かに美しい。しかし同時に、断片を断片のままに受け入れるということ、断片として存在するものそれ自体に美しさを感じることもまた必要なのではないか、と思う。それは例えば、大会で結果が出なかったとしてもその前の努力を努力として認めるということである。もしくは、嫌いな人間であっても、その人間の行いが良いものであったら潔く認めるということである。あるいは、死に際して、遺される者たちにあえて背を向けたまま先に進むということである。後世の者がいずれ自分の物語を回収してくれるだろうという可能性に賭けて、それを子どもたちに託すことは、究極的に美しいことだと自分は思う。

 

断片の美学は、畏れに裏打ちされて成立している。丁寧に言うならば、美しいものがなぜ美しいかといえばそれは理由がないからであり、理由がないということは我々に畏怖を抱かせる、ということである。例えば展覧会場に便器を置くという有名なエピソードが指し示しているのは、我々が日常的に慣れ親しんでいるものが異なる文脈に置かれた際、言いようのない不安を感じるということだ。ミルクレープの層が一枚だけ置かれていたら、一見不気味なそれを食べようとは思わないだろう。「異化効果」として概念化されているこの事象は、我々が物語から断片を抉り取ることがどれだけ困難かを教えてくれている。しかしそれに立ち向かえるだけの人間は魅力的だし、少なくとも自分はそういう人が好きだなと思う。

 

なるほど、それならバームクーヘンを一枚一枚剥いで食べることにしようと考えるかもしれない。けれどもバームクーヘンはそぎ切りにして食べるのが一番美味しい。断片にも色々あるということである。