仮面、信仰、4月

 

特にネット系のテーマを扱った作品において顕著だけれど、「仮面を被る」という言葉が使われる時には、概ね悪印象が付きまとう。「本当の自分」を相手に見せずに人付き合いをしていると解釈されるためである。ここで、「『本当の自分』なんて存在しないよね〜」云々の議論を語るつもりは毛頭ない。むしろ、真実の自分みたいなものがあって欲しいと願っている。こんな物騒な時代だからこそ、自分の行く先が分からなくなった時に、自分の内部に何か縋れるものが欲しいと思うのは当然のことだと思う。自分の外部のものに対する信仰を自分自身への信仰に無意識的に転化する仕組みがあり、それを人は宗教と呼んでいるらしい。

 


個人的には、自分の所属先次第で自分の仮面を付け替えることはむしろ必要だと思っている。ある仮面が上手く機能しなくなった時に、代わりの仮面を用意しておくということ。もしくは、自分がある場所で立ち行かなくなった時に、どこか他の共同体に安息を求めるということ。

学位記伝達式で、学科の先生が次のように仰っていた。「皆さんが社会に出て、必ず思い通りに行かないこともあります。家庭も仕事も崩壊する時が来る」と。多分そうなんだろうな、と思った。そんな時こそ、学科で学んだことに縋ってみればどうか、ということなんだろう。そしてそれこそ、人文学の大きな力なのかなあ。


ちなみに、似た話で個人的に全く理解出来ないのは、男女関係における束縛である。よく「自分以外の男と関わるな」的な話を耳にするけれども、もし自分だけとしか関わらなかったら、一切面白みのない人間になるんじゃないの?と思う。そもそも世の中の人間は相手に面白さを求めていないのかもしれない。自分は面白さしか求めていない。知っている人には言うまでもないだろうけれど、この文章を書いている人間が広く浅く手を出してしまう人間であるのがその証明である。

 


2019年4月は間違いなく、自分史の中での暗黒時代として記録されてしまうだろうと思う。詳細は秘すけれど、なす術なく自分がよくない方向へと流されるのに抵抗出来ない感覚がずっと続いていた。部活を続けていたら違ったかもしれないな、と何度か思った。今は、精神的に所属している共同体が存在しない。取り替える顔のスペアはどこにもない。

最近の行動規範は専ら「他人のため」で、これだと聞こえは良いけれど、実際には「自分のために行動するのに価値を見出せていない」というだけのこと。鳥居みゆきが同じような文脈で「35歳からは余生」と言っていた。22歳から余生というのも悪くないかな。