私的Vaporwave

 

愛というものははじめから存在するものではなくそれ自体を探していくことを指すのだ、と誰かが言った。同様に、美しさというものもまた、それを創り上げていく過程にその本質があるように思う。このように定義すれば、「愛」の喪失は、あるいは「美しさ」の喪失は、その過程が歩みを止めることと本質的に同義である。


2019年が終わろうとしている。iPhoneのカレンダーに大きく「1」が表示されるたびに無気力な1ヶ月がまた過ぎ去っていったかと思っては花にも涙を灌ぎ、死んだ人間が何度も夢に出てきては鳥にも心を驚かせた。これで前厄なのだとしたら2020年は正常でいられるか心底恐ろしい。もし虎になって君たちの前に出てきたら、その際は一思いに裁いて欲しい。

この1年において歩みはなかった。率直には、大会で見る後輩の姿に美しさよりも妬みを覚えた。それは、喪失を喪失として捉えられていないというそのこと自体が原因であるように思う。言い換えれば、喪失から喪失感が失われていることによって、「成熟」が不可能になっているということである。胎児が母親から決定的に切り離されて初めて一個人として成立するように、変化が非連続的で自覚可能な形であればこそ、「成熟」は可能なのかもしれない。だからこそ、着実に「人間的に成長」しているように見えた後輩を羨んだ。


ちょうど父親の1周忌を終えた(実際の命日よりは半ヶ月ほど早いけれど、死者の尊厳より生者の都合が優先される残念な現世)。死を受け止め切れていないとかではなく、むしろあまりに無感情で受け入れすぎてしまったこと、日常における特異点ではなく連続する単なる一点としてしか見なせなかったこと、この呪いが未だに続いている。あたかも、現在の日本が災害などの大きな要因なく瓦解しているのと同じように。

生活の中で父親との思い出が頭をよぎることなどほとんどない。けれども、確かに死者の脈動を感じる時がある。何気ない時にそれが現れる。借金がまた出てきたことは関係ない。


夢に出てくる父親は笑っている。自分で呪いを解除出来ない自分を笑っているように見える。未だに解除の呪文は見当たらないけれど、今出来ることはただひたすら、言葉の魔力に縋ることただそれだけだろうと思う。