身ごとどっかに 吹き飛んでしまったって

 

小さな自分にとって、職員室のドアはあまりにも高くそびえ立つ絶壁だった。自分が知らない先生たちがうようよする大人の世界は確かに魅力的だったかもしれないけれど、知らない場所に飛び込むのは余りある勇気が必要だ。そういうわけで、職員室に入らなければならない用事は基本的に引き受けなかったし、どうしても入らねばならない時は口上を念入りにシミュレーションすることにしていた。ドアを開けて「3年1組の〇〇です」から始まり、噛まずに言えるかの難関ポイントである「失礼してもよろしいでしょうか」を経由し、用事のある先生にゴニョゴニョと用件を伝えてゴールイン。イメージトレーニング通りに試合を終えた選手は意気揚々と来た道を戻り、自らの控えベンチである教室に戻る。得点を決めてもハイタッチをする友達などはおらず、自分の席に着くだけなのだが。

 

あの時職員室のドアを開けるのが怖かった少年は、今やパチンコ屋の玄関ホールを躊躇いなく通り抜けられる大人になった。けれども根本的には何も変わっちゃいなくて、自分の行動には、必ず思考か試行が伴う。行き当たりばったりの旅行なんかに憧れるけれど、中々実行に移すまでは難しい。適当な店選びなんかもめっぽう苦手で、どうしても人に任せきりにしてしまう。

 

程度の差こそあれ、決断するにあたって、ぼくらは何らかの枠組みに縋りたくなるものだと思う。ファミレスのメニュー表から選ぶ時には「店長イチ押し」が効くし、文庫本の帯は高名な誰かが推薦しがちだ。センシティブな話題をあえて持ち込めば、「男は仕事、女は家事」のようなことばもあった。自分の生き方を自分で決めて引き受けなければならないという恐怖に直面した時、かえってそのような二元論が強く機能してくれた時代があった、ということなのかもしれない。もちろん、それが良いとか悪いとか言うつもりはないけれど。

 

計画通り動くのはもちろん必要だけれど、それだけでは創造は出来ない。意図せざる出会いを生まないことには、進化は起きない。自分の中に存在する枠組みを取っ払ってしまうことが必要だ。組まれた足場よりも大きな建築を立てるのは、おそらく難しい。

とはいえ、その枠組みは、自分が気付き得ないからこそ枠組みになってしまっていることに気付かないといけない。破壊は、対象を確認しないことには絶対に成り立たない。とすれば、やるつもりがなかったけどなぜかやってしまっていたとか、喋るつもりがなかったことを何故か喋っていたとか、あれを受けてこんな事を考えるようになったとか、そんな自分の枠組みを越えさせてくれる原因になる触媒のようなものこそ、実は自分が本当に大事にすべきものなのかもしれない。

 

そんな大事なものを探す1年に出来たら良いですね。今年もよろしくお願いします。