ソーセージの神様

 

父親は厳しく頑固だったし、何よりこだわりが強かった。何もかもが自分の思い通りにならないと機嫌を悪くしていた。年末に病気に倒れた際にも、廊下に設置された手すりをあと2cm高くしろと騒いでいたらしい。ぼくが人の気持ちに敏感でいることが出来ないのは、もしかしなくても父のせいに違いない。

当然とも言うべきか、そんな父は、心霊写真や占いといったスピリチュアルなものをひどく毛嫌いしていた。「バカらしい!」というのが口癖で、その言葉が聞こえた3秒後には、テレビのチャンネルを「ニュース7」に変えられるのが常だった。子どものぼくからすれば、大して学がないはずの父がお堅い報道番組に固執する方がよほどバカらしかったが、みすみす父を怒らせて正座1時間の罰を食らうほどぼくもバカではなかった。その結果ぼくは小1にして「イスラエル紛争」の言葉をなんとなく理解していて、クラス担任の先生に褒められることになったのである。


そんな父も病気に対しては思い通りにいかなかったようで、ついに今月の頭にこの世を去った。精進落としの席では、父の生前の悪行で盛り上がった。長女に対する罰として長時間押し入れに閉じ込めていた話、次女に対し「豚吉」などというひどいあだ名を付けていた話、長男を孫の手で引っ叩くために家中を追いかけ回していた話。そんな中、母が複雑な表情をしながら、年末にあった出来事を話してくれた。

真夜中に目が覚めた父はいつも通りトイレに向かうと思いきや、何故か家の外に出ていったそうだ。家に併設された仕事場まで歩いていった父は、その冷蔵庫からソーセージを2本だけ持ち出し、家に戻ってきたらしい。しかし、弱っている身体は思うままに動かない。階段の最上段で父はバタンと躓き、その大きな音で目が覚めた母は、急いで父の元へ駆け寄ったとのことだった。「なんでソーセージなんか持ってきたの」と問う母に対し、父はこう答えた。

「ソーセージの神様が、ソーセージを2本持って来い、と言いよった。」

2人の姉は口々に「意味わからん」「気持ち悪い」と言い合っていたけれど、その時ぼくの頭には、ソーセージの神様がそのお姿を顕しつつあった。

やはり神様というからには、白髪で長髭の老人。手にした樫の杖の根元には、ソーセージをモチーフにしたレリーフが刻み込まれている。杖全体の形もまたソーセージ型の緩やかなカーブを保っていて、その杖で地面をひと突きすると、地面からソーセージの木がにょきにょきと生えてくる。おっちょこちょいなソーセージの神様は足腰が悪く、転けそうになる度に誤って地面に杖を強く押し当ててしまうため、神様の住む山にはソーセージの実が大量に成っているらしい。収穫期には多くの夢見る若者がソーセージ狩りに山に向かうが、その道中はあまりに険しく、ほとんどの者が命を落とす。生き延びた者が持ち帰ってきたソーセージだけが、「シャウエッセン」と名を付けられ、高値で取引されている。1ヶ月の労働で5年分の給与が手に入るため、その仕事の危険さに関わらず、希望者は絶えないとの噂である。

いや、そんな仙人みたいな人がソーセージなんて好むわけがない。仙人が口にするのは、霞だと昔から相場が決まっているのだ。じゃあ、ムキムキのドイツ人青年? うん、そうに違いない。イメージにぴったり。日本古来の神というよりは、ソシャゲなんかでデフォルメされやすいタイプなんだろうな。でも、ガチャを引いて虹色の魔法陣からソーセージの神様が出現するさまをどれだけ想像しても、友達とワイワイ盛り上がるイメージはまるで湧かない。とすれば、おそらくレアリティは星4といったところ。そしてこれは自信がないけど、おそらく今頃、キャンペーンで排出率は3倍に上昇中。けれども、装備品「ケチャップ」「カレー粉」と共に配合することによってソーセージの神様は「カリーヴルスト」に進化。手に持っていたはずのフライ返しは、進化とともに、ソーセージのレリーフが彫り込まれたソーセージ型の杖に姿を変えて——

 

気がつけば、父が宝くじの沼に吸い込まれた話に変わっていた。父はパチンコや競馬といったギャンブルには手を出さなかったが、宝くじだけは別だった。「買わんかったら当たらんぞ」が口癖だった。おそらくそこでも、父は宝くじの神様を追いかけていたのだろう。近々宝くじ売り場にデビューして、宝くじの神様に会ってやろうと考えている。