カルキノスの襲撃

 

つい今しがたコンビニに売ってあったミルクティー味の豆乳飲料を買おうと手に取ったところ、小さく“for women” という文字がプリントされているのが目に入り、思わず反射的に棚に戻してしまった。結局30秒後には再度買い物カゴに放り込み直したのだが、その自分の行為が心に引っ掛かったまま、帰り道やや悶々としていた。せっかくの散歩くらいは晴れやかな気分でやりたいものだが、そういう性格なのは仕方ないのかもしれない。


YouTubeの広告でブラウンのシルク・エキスパートが出てきても、普段そんなものを自分が意識することはない(「そんなもの」という言い方が全てを物語っている)。自分にとってそれは取るに足らない、視野の外のものだからだ。

とはいえ、視界にないものを我々が全て認めていないかというとそういうことではない。例えば映画を考えてみよう。ある2つのシーンにおいてカメラワークが切り替わったからといって、我々は話の文脈が追えなくなったとは考えない。カメラワークが変わっても、そのシーンは同一の空間と時間のもとで繋がっていると考えるのが自然であるからだ。すなわち、映画はそのフレームの外で繋がっている。より正確に表現するなら、映画はフレームの外で、我々の理性によって繋げられている。自分の視野の外にまで想像力を広げるという試みは、特段難しいことではないはずなのだ。

 

Twitterで最近「自分だったら政治家の給与を自分たちの平均まで下げる」という発言を見た。是非について明言は避けておくとしても、その論理を反転すれば、我々は他人に対して一切語ることが出来なくなる、ということは容易に想像がつく。

シュミットの友敵理論に則るかのような分断が日々加速していく中で、そのような反転の可能性を想像できるかどうかが問われている。足に噛みついてきた蟹を踏み潰すのではなく、掬い上げるということである。

 

パエトンの墜落

 

最近とんと長編小説を読んでいない、ということに気づく。そもそも小説自体あまり買うことがないというのもあるし、今本棚にある小説を探してみたところ、ほとんどが1篇100ページくらいしかなかった。長編小説が嫌いということではもちろんない。

理由は一体どこにあるのだろうか。他人の物語に興味がないからというのは悲しすぎるし、むしろ興味しかない(と言うと、嘘だろと突っ込まれそうだが)。そんなことをぼんやり考えていた時、Webマガジン「考える人」に掲載されていた古井由吉の対談を読んだ。(古井由吉といえば、学部3年の頃に『円陣を組む女たち』の評論文を書いた記憶以来である。)この対談中に、「長編小説の下品さ」が指摘されている一節がある。「ことによると長篇小説というのは、人になにかを強要する下品なものなのかもしれない。」

https://kangaeruhito.jp/interviewcat/furuihasumi

何かをばらばらに破壊するのではなく、むしろばらばらなものを勝手に繋げ直す創造的な破壊があり、場合によってはそちらの方が下品と言えるのかもしれない。


「分人」という概念がある。individualに対抗したdividual、すなわち「分割可能なもの」として個人を捉えるという見方だが、ぼくは基本的にこれを支持している。人間は角度を変える毎に違う要素が垣間見えるプリズムであり、それを一幕で語ろうとすること自体が創造の皮を被った破壊行為と言ってもいいのではないか。そうではなく、様々な断片を断片のまま置き去りにするという格好良さもある。物語の補助線を垣間見せることすらない美学が。


新型ウイルスの影響により、様々なところで「偶然性」をめぐる議論が浮かび上がっている。九鬼周造は運命は偶然の一部であると述べているが、逆の方向性もあり得るかもしれないとも思う。すなわち、赤い糸を断ち切るものとしての偶然である。全ての物事に必ずしも意味が存在しないのもまた、偶然性の作用である。近いうちにまとめられたらと思っているけど、考えれば考えるほど瓦解していく未来しか見えない。


こんなご時世だし明るい話題をしようと思うけれども、どうしてもウイルスに引き寄せられてしまうのはなかなかに悲しい。そういった強制力を振り切りたいと願っている。

 

アストライアの双皿

 

誰しもが自分だけの妙なこだわりを持っていて、無意味だと分かっていてもなお貫き通してしまうことがある。「流儀」という、白いテーブルクロスに包まれたような格調高いことばは似つかわしくない。無意味どころかむしろ、そのこだわりは自分の首を絞め得るからである。例えば寅さんが義理人情を重んじるあまりヒロインに振られ続けたり、ルパンが不二子に裏切られて窮地に陥ってもなお彼女にぞっこんなように。しかしそんな自己完結的なこだわりを「美学」と称すのかもしれない。美はどこまでも主観的で、そして自閉的である。


美学というべきかどうかは想像に任せるとして、妙なところで公平性を重んじるきらいがある。後輩の扱いは(表向きは)平等に保っていたつもりだし、受験の時に塾に行かなかったのは何もお金がないという理由だけではない。もちろん他人が何をやろうが知ったことではないが、少なくとも自分にとってはそれが美学であり、あるいは正義と言ってよい。


そんなわけで就活も3月から始めた。もちろん今年は解禁日なんてなかった訳だけれど、それでも3月からの動き出しにこだわった理由はこのひねくれた平等精神にある。そもそも2月以前に始めるような企業には興味がないし、仮に興味があったとしても行くつもりは毛頭なかった。人を出し抜くくらいなら出し抜かれた方が、というのもまたこだわりである。

そんなことを言っているうちに、最近の事情で選考フローがどんどん後退してしまった。4社くらいしか受けていないのでさすがにと思って少し増やしてみたところである。いずれはどうにかなるだろうと思っているけれど、どうにもならなかった時のために文章の練習をしている。


常にフェアプレーを重視するやつがよくアニメやゲームの敵役にいるのを思い出す。弱いキャラではないけど、だいたい裏側には黒幕がいる、くらいのキャラ付けの気がする。そういうキャラは最後に大体負けを見ている。

 

後輩に連れられて初ディズニーをキメた23歳男性の体験談


「ディズニー行ってみませんか?」

ここから始まるのは、後輩女子の何気ない一言から始まるストーリーである。

 

 

基本的に、福岡の田舎で育った人間にとって、「でぃずにー」という響きはお昼どきの情報番組以外ではほとんど馴染みがない。もちろん行ってみたいという気持ちがないわけではなかった。けれどもそれは「1回くらい経験として」行ってみたいというものであって、例えば大学生が1回ボルダリングに行ってみるのとほとんど変わらない感覚だったのである。

だから、そんな言葉が目の前の後輩から突然聞こえてくると、さすがのぼくも戸惑ってしまうしかない。大学進学と同時に東京に引っ越してきてもう5年になるわけだが、未だに気持ちは炭鉱の町で育った純粋な少年のまま(23歳)なのである。

さて、話の流れでディズニーに行くことになったのだけれど、同時にいくつかの心配事も頭に去来した。1つ目には待ち時間の問題がある。5分待ち以上の行列には並ばず、頼んだ料理が10分以上出てこなかったらキレて退店していた父親ほどではないにしても、ぼく自身そこまで行列待ちが好きというわけではない。ディズニーといえば長時間並ぶのが当たり前みたいな印象があったので、その点はそこそこネックだった。とはいえ、何人かでおしゃべりしながら待っているのもまあ悪くないかと思い直した。

とはいえ、もっと大きい究極的な心配事があった。お察しの通り、それは「カチューシャ」問題である。


荘子』に『泥中に尾を曳(引)く』という逸話がある。楚王に政界入りを打診された荘子が、「亀は高貴な占いに用いられるために殺されて祭壇の上で重宝されるより、泥の中で尾を引きずってでも生きていた方が良かった」と返答し、政界入りの誘いを固辞する故事である。束縛された高貴な暮らしより、貧しくとも自由にのんびり生活を謳歌したいという荘子の願いが込められている。

想像して欲しい。顔が良いのならばともかく、こんなのでカチューシャをつけて歩き回るのは、日本の四大公害に肩を並べるレベルなのではないか。カチューシャをつけた後、寒い空気を取り繕うとする後輩に「似合ってますよ」と震え声で言われるより、ありのままでのんびりディズニーを謳歌したいという自分の願いがそこにあった。

いやむしろ、こちらにとって利が一切合切存在しないという点では『尾を泥中に曳く』よりもたちが悪く、適切なのは『市中引き回しの上、打ち首の刑』というフレーズなのではないか。更に言えば、カチューシャを頭につけた自分の写真が後輩全体のLINEグループなんかで拡散された場合を鑑みると、これは現代版『市中引き回しの上、打ち首の上、晒し首の刑』とでもいうべき凄惨な拷問である。ふと、小学校の人権教育での「人権とは、一人一人が人間らしく生きていくために、生まれながらにしてもっている大切な権利で——」という先生のありがたいお言葉が思い出される。ミニーのカチューシャを付けた自分の写真が流出したとき、人間は人権を保ち続けていられるのだろうか。


とそんなことを考えていた時、後輩からもう一度声を掛けられた。

「ディズニーランドとシー、どっちが良いですか?」

脳天をぶん殴られるような、とはまさにこのことなのかもしれない。もちろんディズニーランドとディズニーシーの2つがあることは知っているけれど、こちとらそれらの違いがよく分かりません、という状態である。パチンコとパチスロの違いがよく分からないのに似ている。いや、パチンコとパチスロの違いなら分かるんだけど。

そのあと後輩2人から聞いた話を総合する限りでは、前者よりも後者の方が若干大人向けということらしい。大人なので(?)、ディズニーシーに行くことにして、大雑把に日程も決めた。後日、別に1人メンバーを追加して、結果4人で行くこととなった。

 

 

当日。

9時に舞浜集合というので、7時くらいに起きて諸々準備をしていた。「夢の国」にどれだけ吸われるのか分からなかったので、念のためと思って10万ほど持って行った。ちなみに前日は後輩にふざけたLINEを送っただけで、緊張して寝られないなどのトラブルもなく安心した。少なくとも、小学校の遠足よりは進歩しているらしい。

ガタゴトと電車に乗って舞浜に近づいた頃、新木場でキラキラしたのがごろごろ乗ってきて、心にもくもくと暗雲が立ち込めてきた。帰る頃には自分もこの女子高生になっているのでは……?と思ったけれど、そうなるんだったら悪くないのかもしれない、と思い直した。一回くらいはそういう人生を歩みたかったと常々思ってたんですよね。

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▲こういう先輩になってはいけない

 

舞浜で後輩たちと合流して、シーまで1kmないくらいの距離を歩いて行った。仲良く話している後輩3人に比べて自分の口数が心なしか少なかったのは初ディズニーへの緊張から来る武者震いであろうか、いや単に口下手なだけである。途中にある運営会社みたいなところに従業員らしき人たちがぞろぞろ入っていくのに笑ってしまった。もしかしたら違うのかもしれないけれど………。


なお肝心な入園してからの感想は「デカすぎる」と「何円かかってんだ」の2つしかない。なおこのどちらもディズニーに限る必要はなく、ドバイの高層マンションを見ても同じことを思うだろうし、東京タワーから真下を眺めても同じことが言えるし、あるいは奈良の大仏でも同じかもしれない。

あと入り口(エントランスと言え)で印象に残っているのは巨大な地球のモニュメントである。地球の中に地球があるのは壮大な入れ子構造だなと思い、学部3年の頃に発表したイメージ学の講義を思い出した。

 


さすがにもう少し気の利いたことを書いておかないとマズいのではないかという気がしてきたので、以下大まかな流れとそのコメントを記す(順番はうろ覚えなのでご了承ください)。

 

ニモ&フレンズ・シーライダー

ファストパスでセンター・オブ・ジ・アースを押さえた後の時間潰しで乗った記念すべき初アトラクションである。乗る前はいうても子供騙しでしょWとか思っていたのだけれど、空間の作り込みや五感をフルに刺激してくるギミックの連続に感動してしまい、閉園までこれに乗っていても良いのではないかと思ってしまった。ディズニーへのイメージがガラッと転換した瞬間である。

知らないタコが出て来たと思ったらニモの続編であるドリーに出演しているらしい。今度見てみようかな。


シンドバッド・ストーリーブック・ヴォヤッジ

船に乗っているとのんびりストーリー展開してくれるタイプのアトラクションである。シンドバッドが冒険に出て色々あって街に帰ってきて讃えられる、という児童文学でお馴染みの展開だった気がする。10回くらいは連続で乗ってられるアトラクションだった。

余談ですが、なぜ王様は1人で旅に行かせがちなのだろうか(ドラクエなんかもそう)。少しくらい兵士が余ってそうなものだけれど。兵士の就活は売り手市場なのかな?あと「ヴォヤッジ」が絶妙にダサい。


センター・オブ・ジ・アース

初めて来たのならメインアトラクションは外せないでしょ、という後輩の素晴らしきご配慮、ファストパスを使って押さえてもらった。ファストパスを使うと長蛇の待機列を一気にショートカット出来て最高なんだよな、というのは小学生の時に付き添いで救急車に乗った時の感想と同じである。「赤信号を無視したのが楽しかった」と書いて怒られた記憶がある。

僭越ながら遊園地というもの自体に2〜3回しか行ったことがなく、そのうちの1回である「だざいふ遊園地」の話を最近福岡に旅行に行った後輩に話したところ、「ああ、あのデパートの屋上にありそうなやつですか」と返されて笑ってしまった。そういうわけでいわゆる絶叫マシンにもあまり乗ったことはなく、自分がそういうものに耐性があるのかないのかすら分からないのである。とはいえおそらく楽しめそうだという自信はあったし、そもそも2つも歳が離れた後輩の前では見栄を張るしかなかったのである。

楽しかったか楽しくなかったかと聞かれればめちゃくちゃ楽しかったけれど、RADWIMPSの歌詞「暗がりの中走る僕ら Yeah Yeah Yeah」とまでハイな気分にはならなかったというのが正直な感想だ。クライマックスの落下直前に「マジか…」と呟いたのを後輩にしっかり聞かれていてあとでちゃんとツッコまれた。


海底2万マイル

小型潜水艇に乗って海に沈んだ古代文明を調査するみたいなライド。途中小さなサーチライトを操作して外を調査するパートがあるのだけれど、デカいサーチライトだったら一瞬で調査が終わるのではないだろうか、と後輩と話した。


インディー・ジョーンズ®︎アドベンチャークリスタルスカルの魔宮

これもファストパスを取ってもらった。

センター・オブ・ジ・アースの時はどうしてもバーを握る腕に力を込め過ぎたので、その反省を活かし、下腹部を膨らませてシートベルトで固定したら(有気無体)、かなり安定して乗れたような感覚があった。インディー・ジョーンズもなかなか大変な仕事をしているなと思った。人生ゲームで転職出来たとしても、パスしてフリーターを選ぶかな。


(昼食)カフェ・ポルトフィーノ

美味しそうな料理が載ったパンフレットを見ながら「普段食べないチキンでも食べるか」みたいな流れで決まった。それこそディズニー映画で出てきそうなチキンを注文した。獣医学専修の後輩女子が「これは〇〇骨で……」とか言いながらナイフとフォークで解剖していくのが好きすぎた。ある意味この日1日で一番面白かったかもしれない。


フランダーのフライングフィッシュコースター

一番特筆すべきことのないコースターである(が、このくらいがなんやかんや一番好きかもしれない)。フランダーの顔が人を舐めてるようにしか見えなくて難儀した。


ブローフィッシュ・バルーンレース

一言で言えばゴンドラ式メリーゴーランド?

コンセプトとしては「ブローフィッシュ(フグ)たちのレース」らしいのだが、それだけ聞くと競馬じゃねえかと思ってしまうのがいかにもカス大学生という感じである。

待機列でフジツボのモニュメントを見ながら「丸が3つあればトポロジー的には全て隠れミッキー」という話をしたら怒られた。


マーメイドラグーンシアター

「リトル・マーメイド」に出てくるアリエルをモチーフにしたミュージカルショーである。

スケールも大きいし演出も素晴らしい中、やはり特筆すべきはワイヤーで吊り下げられた役者さん(じゃなくてアリエル)が空中を飛び回るワイヤーアクションが面白かった。バク宙の方向に回転するばかりで前宙方向の回転はほとんどなかったように感じるけどバランスを取るのが相当難しいんだろうか、とどうでもいいことが気になった。ミュージカルの最後にアリエルがワイヤーで引っ張り上げられるのを、横の女性2人組が「収納されてるW」と笑い合っていて、同じことを思っていた自分の正当性が保証されたように感じた。

「先輩もあれ(アリエル役)出来ると思います!」って言われたんだけど、おっさんが飛び回るのを見るのは地獄じゃないでしょうか?


ソアリン:ファンタスティック・フライト

最新のアトラクションということで3時間待ち。ニモ味のチュロス、じゃないニモ色のオレンジ味のチュロスを食べながらひたすら待った。後輩が寿司ロールを食べながら「これニモのアトラクションの近くで食べるの嫌味じゃない?」みたいなことを話していたのがちょっとツボに入った。

ひょっとするとネタバレが嫌な人がいるかもしれないので詳細は秘すけれど、これだけ並ぶ人がいるのも納得の出来栄えだった。家に1台欲しいなあ。疲れた時に20分くらい乗っていたい。

 

 

初のディズニー体験は概ね以上である。

「夢の国」というフレーズは若干バカにしていた節があるけれど、間違いなく行ってよかったと断言出来る(もちろん付き合ってくれた後輩たちのおかげですが)。シーじゃない方(ほら、「シー」とか言ってる時点でちょっと玄人感出てませんか?W)に行くのも悪くないかなと思っている(ので、気が向いたら誘ってみてください。別に興味があるのは、もうちょっと激しい絶叫マシンとかバンジー系、さらに別方面では寝台列車の旅、さらにさらに別方面では宗教社会学)。

 


なおカチューシャは頑張って首元までが限界だった。

 

人間関係についての試論

 

最近SNSなんかで沸き起こるフェミニズム系の議論やハラスメント系の話題を陰から見ているとなんとも言えない気持ちになるし、そのつもりがなくても自分が非難されるべきことをやってしまっているのかもしれないという自戒を強めざるを得ない。(あくまで例えだが)「男性は反論しがち」みたいな主張に対して強い感情を持って反論しているリプとかを見ると、その反論が正しいか正しくないかは別にして、こんな恥ずかしい状態にはなりたくないなあと思うことがよくある。


特に気をつけなければと思うのが権力の勾配、最も身近なところでは先輩後輩の関係である。現役の時から出来るだけ意識するようにはしていたけれど、OBになってから尚更色々考えるようになった。

現役の時の話を少しするならば、最低限2つだけ意識するようにしていた。1つ目は特定の後輩を特別扱いしているようには振る舞わないこと。もちろん心の中で気に入っているレベルの違いはあったけれど、意識的に平等に努めていた。そして2つ目は、あまり後輩に指図をしないようにすること。後輩に仕事を覚えてもらう必要もあるし、立場的にやってはいけない場合も多いので全てがそうという訳ではないが、一般に後輩がやるような仕事も出来るだけやるようにしていた。

とはいえ、そもそも意識出来ないことには気づきようがない。「何でもは知らないわ、知ってることだけ」という名言があるけれども、自分が後輩に気を遣っているように思うのならば、それは自分が見えている範囲だけを見て言っているに過ぎないのかもしれない。


少し前に所用で練習にお邪魔することがあったけれど、一切自分から後輩に話しかけないようにした。更には、(これは非難されるべきことではあるけれど)一言も実技指導をしなかった。特に2年女子とかを見ていて、「この場所をこう意識すれば絶対上手くなるのに」など思うことはいくつかあったけれど、向こうからしたら関わりのない先輩(しかも男)が突然出てきて講釈を垂れる(マンスプレイニングと言ってもいい)のは、ちょっといいかなと感じたからだ。

その結果、7時間いてちゃんと中身のある会話をした後輩はたった1人である。おそらく新記録だと思う。3人くらいとは話せるかなと思っていたので少しだけ残念だった(もちろん君たちが悪い訳ではないです)。

同様に、自分から後輩を遊びに誘うこともしないようにした。自分から日程を提示したりすると強制力があるなと感じたのでただ「〜はどう」みたいな感じなのだけれど、そうすると日程決めとかの面倒ごとを全て後輩に押し付けることになってしまうのが難しいところである。ただはっきり言ってしまえば、別に反応がなければそれだけのことに過ぎない。


改めて考えてみると、自分が先輩から話しかけられたからといってハラスメントだとか面倒だとか思うことは決してないし、むしろありがたいなあと思う。けれどもそれは先輩の人柄とか性格ありきであって、自分の場合は決してそうはならないのではないか、とも思う。考えすぎかもしれないけれど、考えすぎるくらいでちょうどいいのかもしれない。「出る杭は打たれる」というが、出なければ打たれることはない。

 

書くことの(不)可能性—あるいは、走り切った三年半の続き

 

部活の引退の日には、消える人間が後輩たちに向けてスピーチを行う時間がある。話す内容だけでなく、それを話す者の人柄まで含めて、様々な思いが胸に去来すること必至のお時間である。各々が自らの部活人生を振り返り、限られた時間と限られた言葉で何かを伝えようとする美しさが、確かにそこに存在しているように思われる。

そもそも言葉を用いるという試みの裏には、伝達し得ぬものであってもそれをなんとかして伝達したいという話者の思いが既に織り込まれている。語り得ないという基本原理に圧倒されて沈黙するのではなく、その基本原理を引き受けた上で真っ向から刃を向けるという覚悟が、言葉を言葉たらしめている。言葉の(不)可能性と言い換えても良い。

これは、畳の上に立つ覚悟と似ている。どれだけ必死に練習を積もうが積むまいが、大会の場ではその全てを表現できるわけではない。過去の自分を、あるいは共にやってきた者の思いをたった1回の演武に集約して表現せねばならない、演武の(不)可能性とでも呼ぶべきだろう。


自分が引退する1年前の時点で既に、ここまでの話を自分の「引退の言葉」にしようと決めていた。自分が一番大事にしていた思想だったし、そのはずだったから。

でも結果的にはそうしなかった。というのは、2018年の秋(つまり引退直前)に、突然父親の余命が10ヶ月ほど縮まったからである。

繰り返し言うけれど、死んだこと自体はそこまで気になっているわけではない(この感覚についても未だうまく表現出来ないのだが、これもまた言葉の(不)可能性である)。ただ、死期の短縮に言い得ぬ衝撃を受けたこともまた事実だった。そして深く考えずとも、引退の言葉を変えねばならないことにも気付いていた。自分がそんな言葉を発したら、それこそ死者の呪いに付き纏われ続ける気がしたから。そしてそれと同じく、自分自身が後輩に呪いをかけることになるのではないかと思ったからである。「背負うことは美しいこと」というテーゼは、裏返せば、背負うことに失敗したものの価値を大幅に認めないことになってしまうからである。


2019年、結果的に自分は、死者の呪いに苛まれることになった。しかし、形は違えど、後輩たちに同じような呪いを押し付けたくはなかった。少なくとも、過去の自分の発言や行いが、既に後輩にそういう作用をもたらしはじめていることにも気付いていた。例えば、寄せ書きにありがたいメッセージを書いてきた後輩がもし去就を考えるようになった時(高確率でそうなると予想していたが)、自分で書いたことが自分を縛りつけるようなことが起こるだろうと容易に想像がついた。

そこでせめて自分から刃を向けないために、この1年はあまり近づかないようにしようと決めた。基本的に、呼ばれない限りは練習に顔を出したりはしなかった。もう少し上手に立ち回れる感度センサーがあればよかったのだけれど、そんなものがある人間に、高校の同窓会の通知が来ないわけがないのである。


2019年の最後なのに1年前の部活の話しかしていないけれど、どのみちこの年の全てを表現することは出来ない。これも言葉の(不)可能性である。

 

 

2020年はもう少し丸くなってもいいのかな、ということ、そして畳の上に戻るのも悪くないかなと思っています。どうぞよろしくお願いします。

 

私的Vaporwave

 

愛というものははじめから存在するものではなくそれ自体を探していくことを指すのだ、と誰かが言った。同様に、美しさというものもまた、それを創り上げていく過程にその本質があるように思う。このように定義すれば、「愛」の喪失は、あるいは「美しさ」の喪失は、その過程が歩みを止めることと本質的に同義である。


2019年が終わろうとしている。iPhoneのカレンダーに大きく「1」が表示されるたびに無気力な1ヶ月がまた過ぎ去っていったかと思っては花にも涙を灌ぎ、死んだ人間が何度も夢に出てきては鳥にも心を驚かせた。これで前厄なのだとしたら2020年は正常でいられるか心底恐ろしい。もし虎になって君たちの前に出てきたら、その際は一思いに裁いて欲しい。

この1年において歩みはなかった。率直には、大会で見る後輩の姿に美しさよりも妬みを覚えた。それは、喪失を喪失として捉えられていないというそのこと自体が原因であるように思う。言い換えれば、喪失から喪失感が失われていることによって、「成熟」が不可能になっているということである。胎児が母親から決定的に切り離されて初めて一個人として成立するように、変化が非連続的で自覚可能な形であればこそ、「成熟」は可能なのかもしれない。だからこそ、着実に「人間的に成長」しているように見えた後輩を羨んだ。


ちょうど父親の1周忌を終えた(実際の命日よりは半ヶ月ほど早いけれど、死者の尊厳より生者の都合が優先される残念な現世)。死を受け止め切れていないとかではなく、むしろあまりに無感情で受け入れすぎてしまったこと、日常における特異点ではなく連続する単なる一点としてしか見なせなかったこと、この呪いが未だに続いている。あたかも、現在の日本が災害などの大きな要因なく瓦解しているのと同じように。

生活の中で父親との思い出が頭をよぎることなどほとんどない。けれども、確かに死者の脈動を感じる時がある。何気ない時にそれが現れる。借金がまた出てきたことは関係ない。


夢に出てくる父親は笑っている。自分で呪いを解除出来ない自分を笑っているように見える。未だに解除の呪文は見当たらないけれど、今出来ることはただひたすら、言葉の魔力に縋ることただそれだけだろうと思う。