それでもぼくらはトンネルで息を止める

「確率が1を超える」という事態が起きるとすれば、それは数学の採点バイト中に他ならない。単純作業の繰り返しで苦行だと思われがちな採点業務ではあるが、sinやcosの値が100に近づく者や線分の長さが虚数解になってしまう高校生との出会いは案外に魅力的である。そんな解答を見る度に、頭の中の女芸人が「いや確率で1超えんな!」「ほな虚数の図形描いてみい!」と叫びだす。採点する手は完全に止まって動いていないが、そんな空想の世界に浸りつつも3秒毎に1円が口座に落ちてくる。罪な商売である。

 

昔からの悪い癖で無駄が苦手である。より正確に言えば、必要な物さえケチる人間なのだ。物の買い替えは極力行わないようにしているし、服は3枚で足りると思っている。2週間に1度のペースでアルコールを買って飲むがそれすらも度数9%で、「効率」というフレーズが頭の中でどこまでもリフレインする。チャンネルの主導権を握る父親はアニメを「バカらしい」と一蹴し、財布を管理する母親はマンガを「こんなもの」と毛嫌いするような家庭だった。子供が大学で勉強している内容を聞いてもなお、彼らは侮蔑の目を向けるだろうか。そういう人間は得てして権威に盲従する。

そうはいっても、自営業の実家の経済状況がサガミの0.02並みに薄いという事実は幼い頭にもぼんやりと理解出来ていたのかもしれない。父親が一部の顧客から「社長」と呼ばれているのは滑稽で、度々冷やかしていた。あの人間が社長になれるのならば、自分だって世界の中心である。

 

突き詰めてしまえば、本当に必要なものは自分だけであって、周りにいるのは顔のない人間で十分ということになる。しかし折角であれば、1+1の可能性に賭けてみたいという思いがあることもまた事実である。1+1から3を生み出そうとすると関係はすれ違うのだろうけれど、もしかすると2.1くらいにはなるのかもしれない。

結局のところ、クレープにはチョコチップのトッピングが欲しい。パンケーキにはシロップが欲しいし、心にはいくばくかのスペースが欲しいのだ。無駄なものを無駄なままで受け入れられる余裕というか、いい意味で諦めてシニカルに過ごすカッコよさが欲しい。心の空隙でまわりの事象を見つめ直すことが出来れば、そこに新たな面白さを浮かび上がらせることが出来るのかもしれない。そういえばクレープの起源も、熱々の石の上にこぼしたお粥という失敗から生まれたものだった。

 

別の日に採点した答案に、「数学は難しいです。1点ください」と丁寧な字で書いてあるものを見つけた。5秒ほど見つめて、大きな×印を付けた。奨学金増額の手続きを終えた日のことである。