“ジブン”と言えないままで

ええ、そうです、よくお分かりですね。わたしはスーツが苦手なんです。

いえ、特に大きな理由がパッと思いつくわけでもないんですけど……。ただ、特にスラックスなんかは太ももにべったり布がまとわりつくような感覚が気持ち悪いなと思うことはありますし、何より首元のボタンとネクタイは、なんて言うか、首輪を着けられた時の拘束感にすごく似てるんですよ。あ、なんで首輪を着けられる感覚が分かるのかって? オプションでやってくれるお店があるんです。

よくよく考えてみると、スーツを目にする場面はかなり限られていますよね。代表的な例で言えば、やはり満員電車でしょうか。満員電車は海外から見ると日本の文化として定着してしまっているらしく、あの中に入ることに歓喜を覚える観光客もいると聞きます。ええ、びっくりですよね? しかしわたしなんかは少しでも空いてる車両を選ぶようなタイプで……駅の改札から遠くてもそちらの方に乗っちゃうんですよ。わたしにとってのスーツは、満員電車のいやなイメージと重ね合わされてしまっているのかもしれません。

でもしゃべっているうちにスッキリしました。やっぱりわたしは自由でありたいし、何者からも束縛されずに生きていたいなっていう思いが強いんだと思います。わたし、鳥居みゆきさんの結婚生活に理想のようなものを抱いてるんです。いや、あそこまで関係がないと結婚する意味がないよねって話なんですけど、少なくとも誰かに縛られたくはないなと思ってます。自分が好きな時には好きなことをして、相手に無理やり付き合わなくてもいいのが理想かなと。前の前の彼氏なんて、いつも「死にたい」とか言っておきながら、わたしが本屋に行くと知ったら急に「じゃあ俺も行く」とついて来るような男だったんですよ? あいつに『生き延びるためのラカン』とか分かるもんですか。

 

あ、結婚願望を話し始めるとついつい話が止まらなくなるみたいですみませんねえ。最初にスーツを買った時ですか? それは上京前のことですね。まだ両親の間にかろうじて会話があった頃ですが、家族3人でスーツを買いに行ったのを覚えています。わたしは安いもので済ませようと提案したのですが、父親がそれを認めなかったんです。ちょっとでも良いものを1着でいいから持っておけと。多分セットで6万もしたと思いますが、それさえ持っていれば、万が一お通夜なんかがあっても恥ずかしくない対応が出来るだろうと、そう言ったんですね。

あれから3年半が経って、父は余命4ヶ月と宣告されました。もしかしたらその時から、父は自分の運命を予感していたのかもしれませんね? 結局、冠婚葬祭目的で最初に使うのが、自分の親の葬式になっちゃいそうなんです。

わたしには兄弟がいませんので、父が死ぬと、家には母親1人が残されることになります。母も来年には還暦を迎え、身体の不調もぼちぼち出てきていると聞きました。なのでそのうち、地元に帰って、母親の面倒を見ながら一緒に暮らすことになるんじゃないでしょうかねえ。

いや、それはしょうがないんじゃないですか? 誰しも老いから逃げることは出来ませんし、誰しもが直面する問題だと思います。それがたまたま早く来ただけのことです。ええ、誰が自由に生きられたりしましょうか? 人間関係の鎖はあまりに硬いですからね。この結末は、スーツを買った時にはもう決まりきっていたのかもしれませんね?